このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
斎藤茂吉の歌碑
あかあかと一本の道通りたり
霊剋るわが命なりけり
港区南青山に「王子グリーンヒル」がある。
「王子グリーンヒル」は外国人向け高級マンション。
「王子グリーンヒル」の片隅に椎の木がある。
椎の木の下に斎藤茂吉の歌碑があった。
あかあかと一本の道通りたり霊剋るわが命なりけり
『あらたま』収録の歌。
「霊剋
(たまきは)
る」は、「命」にかかる枕詞。
昭和52年(1977年)11月、建立。
斎藤茂吉記念館によれば、52番目の茂吉歌碑である。
斎藤茂吉翁(1882〜1953)は、日本の近代短歌史上に偉大な足跡を残しました。
この地「港区南青山4−17−43」は、茂吉翁が明治40年から昭和20年4月までの約40年間居住し、病院経営にあたるかたわら、童馬山房と称し短歌の創作に専念されたところです。
あかあかと一本の道通りたり
霊剋
(たまきは)
るわが命なりけり
この短歌は、大正2年茂吉翁31歳の自筆の歌で、当時の青山の景観と自身の境涯とを重ね合わせて詠んだものです。
王子製紙株式会社
「王子グリーンヒル」は帝国脳病院(青山脳病院)の跡地である。
明治40年(1907年)9月、帝国脳病院(青山脳病院)完成。
大正13年(1924年)12月29日、青山脳病院は火の不始末から全焼。
大正15年(1926年)、松沢村松原(現世田谷区松原)に新青山脳病院開設。青山の診療所は「分院」と呼ばれた。
昭和20年(1945年)4月、茂吉はふるさとの
金瓶村
(現在の上山市金瓶)に疎開
昭和20年(1945年)5月25日、
空襲
により全焼。
「王子グリーンヒル」の南に青南小学校がある。
茂吉の子供茂太や宗吉(北杜夫)は青南小学校で学んだ。
青南小学校に
中村草田男
の句碑がある。
降る雪や明治は遠くなりにけり
明治44年(1911年)、草田男は青南小学校に転校。4・5年生を青南小学校で過ごした。
昭和6年(1931年)、草田男が20年ぶりに母校を訪れた時に詠んだ句である。『長子』に収録。
昭和52年(1977年)2月24日、青南小創立70周年記念事業として建立。
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