このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
今年の旅日記
日和山公園
〜文学の散歩道②〜
酒田市南新町1丁目に日和山公園がある。
嘉永5年(1852)閏2月22日、吉田松陰は酒田を通る。
川を越ゆれば則ち酒田なり、戸數五千、或は云ふ、今は増して七千に至ると。川には大船を泊すべく、新潟以北にて最も繁盛の地なり。
『東北遊日記』
千石船(日和丸)
昭和59年(1984年)秋、建造。
河村瑞賢により西廻り航路が開発された寛文12年(1672年)から、出羽の国の幕府米を、酒田港から江戸に回漕するために活躍したのが千石船である。江戸時代、日本海沿岸の廻航船を北前船又は弁才船と呼んだが、千石船は文字通り、米を千石(150トン)積めるという意味で、荒波に耐える為ドングリ型となっている。当時の酒田港には、横帆一枚、十数人の乗組員で、西廻り航路800海里の荒波を往来した千石船などが、毎日数多く入港してにぎわいをきわめた。この船の大きさは原型のおよそ2分の1であるが、現存する模型では、国内最大のものである。
日和山公園に文学の散歩道がある。
文学の散歩道には29基の文学碑がある。
今日は反対周りに散策路を廻ってみる。
29.読人知らず
もがみがはのぼればくだるいなふねのいなにはあらずこのつきばかり
「古今和歌集」東歌に読み人知らずとして収載されており、最上川が文学に現れた最初である。碑の文字は古今和歌集最古の写本「元永本」による。
24.時雨音羽
酒田みなとに錨を入れて長い船路の宿とる船よ
町の子供にお国を問われ国は遠いとよこ向く人よ
米は積み込む鉢巻すがた錨重たや帆網は澁や
海の彼方に消えゆく白帆港にやつぎの船がくる
時雨音羽集より
時雨音羽は「君恋し」の作詞家だった。
昭和55年(1980年)7月25日、81歳で死去。
23.結城哀草果
日本海に帯なす雲の棚引きて朱き夕日を抱きたるかなや
結城哀草果は山形県生れ。斎藤茂吉に師事。
昭和49年(1974年)、80歳で歿。
雨が激しくなってきた。
18.
斎藤茂吉
ゆたかなる最上川口ふりさけて光ケ丘にたてるけふかも
大石田に疎開中の茂吉が、昭和22年(1947年)4月1日酒田に来遊。山王ホテルに2泊す。その時の即詠揮毫。茂吉全集歌集補遺所収。
17.
正岡 子規
鳥海にかたまる雲や秋日和
その紀行文
「はて知らずの記」
明治26年(1893年)8月9日来酒して翌朝には
吹浦
に出発しているので、その時の作と思われる。『寒山落木 巻二』に収録。
16.
伊東不玉
博労の泊り定めぬ秋の風
元禄2年(1689年)の夏、芭蕉を宿した酒田の医師淵庵、俳号不玉。元禄6年、春の作。『不玉独吟集』「秋の夜」に所収。
15.正岡子規
道々茶屋に憩ふて茶を乞ふ。茶も湯も無しといふ。風俗の質素なること知るべし。歩む事五里再び最上川を渡り、限りなき蘆原の中道辿りて酒田に達す。名物は婦女の肌理細かなる處にありといふ。夜散歩して市街を見る。紅燈緑酒客を招くの家數十戸檐をならぶ。毬燈(きうとう)高く見ゆる處にしたひ行けば翠松館といふ。松林の間にいくつとなくさゝやかなる小屋を掛けて納涼の處とす。
はて知らずの記
より
夕涼み山に茶屋あり松もあり
子規の句
は「はて知らずの記」には、ない。
酒田翠松舘
二句
松の木に提灯さげて夕涼み
夕涼み山に茶屋あり松もあり
『寒山落木 巻二』(明治二十六年 夏)
少し離れた丘の上にあって、なかなか分からなかった。
14.高山彦九郎
日和山とて小高き所あり、神明の宮あり。目下に最上川を見、あなたに砂山清し。(中略) 九日、雨少しく降りて晴る。山王の社へ寄る。日和山の続きなり。鳥居を入り小高し。楼門を入り、小き石橋を渡る。社大なり。午末の間に向ふ。神楽殿、絵馬殿有り。下りて町へ出で、又、日和山を見まほしく、帰りて望む。南に青く小き山、丸く見ゆ。祈山と号す。弁慶が祈り出だしたりと伝ふ。
「北行日記」より
江戸中期の尊王論者、上野国細谷村に生れる。蒲生君平・林子平とともに「寛政の三奇人」「寛政の三奇人」といわれる。寛政2年(1790年)6月、江戸を発し各地を廻って同年8月8日、酒田に来遊し、蕨岡から鳥海登山を試みている。
途中「祈山」とあるのは飯森山のことである。
吉田松陰の文学碑もあったようだが、気づかなかった。
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