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私の旅日記
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2011年
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金刀比羅宮
〜小林一茶句碑〜
倉敷から瀬戸大橋を渡り、
金刀比羅宮
(HP)へ。
全国にある「こんぴらさん」の総本宮である。
貞亨2年(1685年)、
大淀三千風
は金刀比羅宮に行った。
○人生一世客のごとし。何ぞ今朝別離ならむと。いさめつ諫られて。隣山の金毘羅山に行く。町屋木村氏寸木俳人笠を脱ぐ。同和の友しなけれは響うらなく。先當山にまふでんと二人三人かたらひ。神坂二十餘町をたどる。
『日本行脚文集』(巻之五)
御本宮まで石段は785段。
365段 大門
延享3年(1746年)、
佐久間柳居
は金比羅詣をしている。
こゝの札守は初穂によりて軽重あるよし世俗申伝へ侍る
桐は重し柳一葉も札まもり
『柳居発句集』
明和8年(1771年)、
蝶夢
は桐雨と金刀比羅宮に参詣した。
金毘羅権現は海の上を守り給ふ神なればとて、同船の人々と共に参る。道のほど百五十町余りとか。弘法大師誕生し給ひし屏風が浦・弥谷・
善通寺
も近しとぞ。左の方に飯の山あり。さらには山もなくて、よくにたればとて、讃岐富士と申すとか。
『宰府紀行』
安永8年(1779年)、
横田柳几
は金毘羅山で句を詠んでいる。
讃岐金毘羅山にて
牙ほとに三日月涼し象頭山
『布袋庵句集』
天明2年(1782年)5月8日、
森々庵松後
は金比羅宮に詣でる。
この夏もまた象頭山に詣て
あまへよき神にいく度ぬさの若葉
『厳島紀行』
寛政3年(1791年)4月、蝶夢は再び金比羅宮に参詣している。
またこの日は山路がもとを出て象頭山にまうづ、この御神の靈驗いちじるければにや、昔まうでしにもまさりて、都鄙の參詣引もきらず、飯の山は國の中にある山にて、山の姿の似たればとてにや讃岐富士と云、瀧の宮は菅家この國の守にあらせ給ひし時の館の跡といふ、
『四國に渉る記』
寛政5年(1793年)、森々庵松後は筑紫に向かう途上、金比羅宮に参詣しているようだ。
金比羅宮參詣
花に醉ふて眠るか如し象頭山
『心つくし』
桜馬場の途中、宝物館に入る角に
小林一茶の句碑
があった。
おんひらひら蝶も金比羅参哉
寛政6年(1794年)4月12日、32歳の一茶がこんぴら参りをした時の句。
昭和38年(1963年)4月、建立。
431段 桜馬場西詰銅鳥居
628段 旭社
天保8年(1837年)、竣工。
重要文化財である。
黄銅鳥居
賢木門
652段 〜785段 御前四段坂
文政10年(1827年)5月18日、
鶴田卓池
は金比羅大権現に参詣。
象頭山参詣。金比羅大権現、本堂東向、別当松尾寺、坊五ヶ寺、左ノ方ニ大麻山、小麻山ト云有。金比羅知行三百廿石
『西遊日記』
嘉永6年(1853年)2月7日、
吉田松陰
は江戸に行く途中で金刀比羅宮を訪れている。
七日 晴。早く起き、同舟皆金毘羅に赴く、余も亦同じうす。ここより金毘羅市に至る、三里。中間に善通寺あり、弘法大師の誕生所と相傳ふ。市中を行くこと又十八町にして祠あり。祠は地高敞、遠望頗る人意を快くす。市の戸口は意を以て之れを料るに千戸を下らず、壯麗繁華、一都會を爲せり。
『癸丑遊歴日録』
785段 御本宮
御祭神は大物主神と崇徳天皇。
崇徳天皇は第75代の天皇。
小倉百人一首の歌で知られる。
瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ
永治元年(1141年)、譲位。
保元元年(1156年)、保元の乱で讃岐に配流。
長寛2年(1164年)、46歳で崩御。
高台(展望台)
海抜251メートル。
讃岐平野の彼方に瀬戸大橋や讃岐富士が見える。
吸海樓ヨリ東北ノ方に山有。飯ノ山ト云。讃岐不二と呼ハ此山也。
旅人の是をや冨士といゝの山あさ餉の烟立ぬ日ハなし
西行
白峰 崇徳院ノ御歌
啼ハきゝきけハ都の恋しきにこの山過よ山ほとゝきす
『西遊日記』
突然、雪が舞い始めた。
明治43年(1910年)10月10日、河東碧梧桐は琴平の大祭を見に行った。
十月十日。雨。
きょう明日は琴平の大祭で、きょうは御神体がお旅所の神事場へお下がりになるという。お下がりになる行列が一見すべきものである、というので午後の汽車で来た。
『続三千里』
昭和10年(1930年)6月6日、
北原白秋
は屋島、琴平に遍歴。
さらに奥の院に向かうと北原白秋の歌碑があったそうだ。
守れ権現夜明けよ霧よ山はいのちのみそぎ場所
昭和12年(1937年)、
斎藤茂吉
は金比羅に参詣している。
琴平より高砂加古
金毘羅の荒ぶる神をみちのくの穉
(をさな)
き吾に聞かせし母よ
金毘羅の神います山晴れたるにあへぎて登り忽ちくだる
『寒雲』
昭和30年(1955年)12月、
山口誓子
は琴平を訪れている。
琴 平
信仰は高きへ登る冬霞
『構橋』
裏参道を通って
神苑
を散策する。
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