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五升庵蝶夢
『宰府紀行』
明和8年(1771年)4月8日、蝶夢 が桐雨と共に京を立ち、6月中頃に帰庵するまでの凡そ70日間の紀行。
明和9年(1772年)、『宰府紀行』(蝶夢著)刊。桐雨跋。
ことしおもはざるに、伊賀の簔虫居士がもろともに行て旅のつかれをもいたはらんといふ。さそふ水のよるべに、雲水の身のかりそめに思ひたちぬ。かれは従者を具したれば、雨具やうの雨具やうの調度より粉薬・もぐさの類ひ迄用意ねもごろなりければ、いとゞ行すゑたのもしくなん。もとより何に心のとゞまるべき此身ならねど、朝夕念じ奉る本尊の、唯ありて香華の供養すべきものなくて、さびしとやおぼし給らんとひとりごちて、草の戸をかいむすびて立出るは、卯月八日の夕ぐれなれば、
見かへるや躑躅さしたる庵の屋根
日もくれ竹のふしみの舟にのりて、難波につくに、こゝらしれる人々名残お
(を)
しまんとて、共に清水の
うかぶ瀬
といふ酒楼に上りて、
住よしの松から来たか青あらし
西の海づらを見わたして、あの海の限りまでも行んとおもふこゝろ細し。此津の留別とて、
うき草や芦も一夜の居り処 桐雨
十三日といふ暁に、浪華江を漕いでゝ大物
(だいもの)
の浦に着く。これよりぞ旅の心にはなりけり。雨のふりいでければ、
にしの宮
の前に草枕をむすぶ。此神に首途をほのめかし奉るとて、
たびごろも足たゝぬ神もうらやまん
生田の社は若葉しげりて、問べき人の軒も見えず。
須摩
(磨)
のあたりはあまたゝび通ひけれど、いつもむかし物語のためしおもひ出てなつかし。
麦秋やどの家見ても人はなし
道もせにほしたる茶のむしろも、
冬がれのやうに吹ちるもみ茶かな 桐雨
廿一日の朝は、やがて身もすゞしうなりければ、備中の方へと出たつ。備前の
吉備津宮
、備中の
吉備津宮
とて二社の神おはす。吉備の中山といふ小さき山一つを隔て国の境とす。
廿四日明そむる蔀山をこえて朝川をわたり、備後の国
福山
といふ城の下をすぎ、尾の道に宿をもとむ。
広島の府に入り、
風律
老人が隠居にこしかたをかたる。宮嶋え
(へ)
の舟もとむるに、汐時あしければ、性牛といふ人のもとにやどりて一折興行あり。
二十八日の朝舟にのるに、風心よくて
厳嶋
につく。此島の気色をながむるに、うしろは青山峨々として木立くらく、前は白砂渺々として波静によす。本社は中央にありて回廊香の図のごとく左右につらなる。その一間ごとに燈籠をかく。
爰に
錦帯橋
とて世に見るものにせし橋あり。橋の数五ッ、はし柱もなくて木をもて組上げたれば、中は次第に高くさゝへて、さうなき巧なり。魯般の雲梯といふも、かゝる橋をやいふ。
錦帯橋
湯田の温泉にゆあびす。驪山になぞらへし所なるべけれど、今は荒はてて、たゞ上には藁をつかね、下には小石をならべて、ひなびたる事いふばかりなし。小郡山中を過て船木に宿をさだむ。この船木といへるは、神功皇后三韓を責
(攻)
給んとて、御船を作らせ給し所となん。
壇の浦
と申は、神功皇后ひとの国責給んとて御祈のために壇を築せ給ひしより、かくいふとなり。漁を業とするものゝ住る所と見えて、たくなは・網など干す匂ひのうるせくて、「夜の宿腥し」の句おもひあたる。赤間の関は山と海の間にて、いとせまし。むかふは
門司の関
にして、豊前の国なり。海の面わづかに八町余といふ。行かふ寸馬豆人のかたちあざやかなり。音に聞しよりも汐の行かふことはやく、うづまく泡白く見えてすさまじ。
隼人の社
のあれば、隼人の迫門
(せと)
とも申とぞ。いつも師走の卅日の夜、此海のさながら干て、沖の石に付し和布を、神主の鎌もてかりて神供に奉る事、今に絶ずといふ。また此海の石を硯に賞
(めづ)
れば、硯のうみともいふならんかし。それに続て田の浦より青柳が浦迄は、元暦のむかし、
安徳帝
をはじめ奉り、平家の一門の公卿・殿上人・局・内侍以下まで沈みうせし浦は
(わ)
なり。はるかに世へだゝりぬる事ながら、その時の心うき事、沈み給ひし有様まで見る心地せられて、かずかずとりあつめたる哀さもおもひ出めり。
平家蟹とて、人の顔のかたちある恐ろしげなる蟹の、植田の畔に這ありくを、
早乙女に顔よごされな平家蟹 桐雨
中ごろ、伊勢の
団友斎
といひし人、此所にて此蟹をみて、「生海鼡ともならで哀や平家がに」と発句せしかば、その夜の夢に蟹多く来りて身をはき
(ママ)
むと覚しに、忽熱大きに出てなやみければ「生海鼡ともならで流石に平家也」といひなぐさめければ、やがて熱さめけりとなん。げにもよの常の物とも見えず、さる霊あるものなるべしや。
阿弥陀寺
といふ寺に先帝の宸影よりはじめ、一門の画像を安置す。卵塔かずかず見えてあぢきなし。
黒崎
ははや筑前の国なり。そのかみ伊予掾純友兄弟のこもりし所か。木屋の瀬より川づらにそひて行ば、直方にいたる。文紗といふ人の別業にやどる。
明れば五日也ければ、節句の祝ひとて粽を盆にすへ
(ゑ)
て出たり。そのさま菰を藁にてむすび、中には強飯をつゝみたり。「旅にしあれば」と詠し様あり。
椎の葉にもりし思ひや飯ちまき
石坂のさかしきを越て、博多の津にいづ。この津は冷泉の津ともいひ、袖の湊とも詠り。むかしは異国の船入来りて交易の地なりしよし、今も人家軒をあらそひ門をならべ、市女・商人ものさは
(わ)
がし。前には入海はるかにして、舟ども多くかゝれり。
櫛田の社
は菊地寂阿入道が此宮の前にて、馬のすくみて行ざりければ、菊地が軍だちにいかなる神かとがめ給ふべきとて、社壇へ矢を射かけて神躰の大蛇を射殺しける宮居なり。
小倉
の城外、大隆寺の長老にいさゝかのよしみあれば、此寺に半日の閑を得たり。
うき草やまづつくしまで流れより 桐雨
此句を続で一折あり。
箱崎の名は戒・定・恵の三学の箱を埋し故とも、また応神天皇降誕の時、御胞衣を箱に納めて埋し故にかく名付しともいふ。まさしくそのしるしに植し松をしるしの松とて、神前に今もあり。「跡たれて幾夜へぬらん箱崎のしるしの松も神さびにけり」。これらの古き証哥多し。
日もかたぶけば、福岡の城下に扇屋といへるものを尋ぬるに、あるじの悦び大かたならで、五升庵といふ閑室に日ごろやすみ、くしはてし旅の心をのどめて、
まづ蚊帳のひろくて嬉し庵より
といひしを発句として、例のすきものども来りて入興す。
松原の中にまた鳥居立り。猶入る程に楼門あり。額は
「敵国降伏」
の四字也。延喜の御時、神勅ありて宸翰を染められけるとぞ。遙に異国の方に向ひて、敵国降伏の相をしめし給ふぞ忝き。此門は小早川左衛門督隆景の建立也。神殿は大内左京兆義隆朝臣の造立とぞ。松の林の中に松一本有。天正のころ
豊臣大
(太)
閤
、此所を遊覧ありけるに、千の宗易、松が枝に雲龍といふ釜をかけて、茶を点じて献ぜし跡とかや。
かくてあしたの空いとよく晴ければ、太宰府に詣んとて、蝶酔・梅珠を先達にて四十川をのぼる。夕べの雨に堤崩れ橋落て道みだりがはし。あまさへ暑の堪がたければ、御笠の森の楠の下にやすみて草かる童に此森のいはれを尋るに、神功皇后の御笠を風の吹上て此杜の梢にかゝれるより、かくは詠
(よむ)
なりといふ。此辺りみな御笠郡なるよし。
苅萱の関の跡
は、松二株田の中に有るを見やる。此関は中むかしまでも有けるにや。宗祇 の道の記に、関にかゝる程に関守立出てわが行すゑをあやしげに見るも恐ろし。「数ならぬ身をいかにともことゝはゞいかなる名をやかるかやの関」と詠しためしあり。鎮西府すたれぬる世にも、博多は九州の要津なれば、関守を置て非常をいましめたるなるべし。
かるかやの関や茂りし草の中 桐雨
大宰府
は都督府・鎮西府または西の都ともいへり。いにしへ此所に都より官人を下し給ひて、九州の政事を行しめ、かねて異賊の防ぎに備へ給ふとや。官府の跡は国府村の東、つき山といふ小山にあり。其ほとりの田の中に大なる礎その世のまゝにならびてあり。みな大さ六尺余、柱の立し跡はわたり二尺余。
観世音寺
は養老七年沙弥満誓に勅して当寺を造らしめ給ひしとぞ。此時ならん、「とぶさたてあしがら山にふな木きり」と、満誓の詠る也。大弐の御舘の清水の御寺・観世音寺に参り給ひしと、『源氏』に書るも、此寺の事なり。今は諸堂あれはてゝ、聞しにもあらず。観大士の御堂のみ、かたのごとくに有。
戒壇院
は孝謙天皇天平勝宝八年、唐の鑑真和尚日本に受戒の教をはじめて行ひ給ひし霊場なり。
太宰府天満宮
かたへに針貫さしまはしたる梅の古木あり。社僧に問へば、名におえ
(へ)
る
飛梅
とこたふ。今も朽ながらみどりの珠をつらねて実をむすびたり
青梅や仰げば口に酢のたまる
たゞまことをもはらとして、口とく法楽の心をのべ奉るのみ也。やがて此句を巻頭にして、検校坊の客殿にて興行す。一坐は桐雨・梅珠・雨銘・波鴎・志風・賀村の数輩にて執筆は蝶酔なり。
その山の下にむさしとて温泉の湧出る所あり。『宇治拾遺』に
武蔵寺
と載
(のせ)
し所なるべし。これより事のたよりよければ、長崎の津に行てもろこし船見ん、かねてのあらましなり。
二日市の駅の左に雨山あり。曇りてのみと見えわたりける雨山のあたりなれば、一入に紫おふる野辺と聞えし紫村の木立もわからず、黒くも見えず。うるし川の水の色もさだかならず。雨ひたふりにふりてしのをつくがごとし。田代に宿る。
牛津・小田の宿々を経て、
武雄の温泉
に入る。此頃の雨にぬれたる衣をもあぶらんとなり。
薗木の浦
は入江ひろく、嶋山つらなりて景致なり。大村の城下に坡明といふものを尋るに、悦びなのめならず。くだ物取ちらしてちそうす。此あたりは疱瘡をやむものあれば、ふかくいとひにくみて最愛の子といへども、遙なる山の中に捨置べき国の法なりとぞ。まさしく此家の次郎なるわらはべもさし侍るとかたる。
矢上の宿より、天草嶋手にとるばかりに見ゆ。
日見
といふ峠を越れば、やがて長崎の津也。年比のむつびあれば、勝木氏が家に入りて長途の疲をわする。
十八日。けふは唐人の
諏訪の社
へまふで、遊宴の事ありとて、枕山老人の誘引にて、その宮司の書院に通りて見るに、華人五十三人居ならぶ。
一日、坡雲といふ人にさそはれて唐寺を巡拝す。
興福寺
は隠元禅師の開基にして諸堂すべて異国より材木をわたし、かの国の人の造りたるよしにて、我国の様にもあらず、結構たぐひなきたくみ也。
祇園の社に清水の社にならびて、
清水の観音閣
あり。その坂の半ばに尾花塚立り。かゝる波濤のすゑ迄も、風雅の余光の及びぬるぞかしこき。
丸山といふ遊女町
を通りけるに、唐人になれむつぶ女とも覚えず、いと艶にやさし。されどうたふ声も引糸もさすがに都遠き音色ぞ有ける。その夜は餞
(はなむけ)
せんとて、卓子のもてなしに色々のさかなもとめ出て興ふかきにも、行先のはるけさをおもひわびて悲し。
廿二日の暁、時津の浦より舟を出すに、風なくて舟の行事遅し。道をいそぎて嬉野の温泉の宿にとまる。
久留米の町を過て
高良山
に上る。坂の間長く、つゞらおりに足たゆし。玉垂の宮と申奉る、片田舎にあるべしとも覚えぬ壮麗の宮居なり。追分といふ駅を過るころほひは、家々に蚊やりたきたつる程也。日くれて
善導寺
の門前に宿る。此所に平三郎といふ百性
(姓)
に、風流のしれものあり。ふるくしれるものなりければ、告しらせけるに、とみにその家に来りて、夜更るまで語る。御堂は翌
(あす)
こそしるべせめとて、その夜はふしぬ。
明れば、かの男の案内に寺にまふ
(う)
づ。此寺は我門の第二祖聖光弁阿上人の遺跡なり。この門流をくむを鎮西流とは申なり。諸堂軒をならぶ。上人の廟所はちいさき五輪を立て、銘に曰、「専修念仏師聖光聖霊墓正助行不退遂往生極楽」と云々、古代の人の淳朴なる文章に随喜の涙を催す。
かならず帰らん道にはと約したる事の有ければ、今宵は福岡に入りて梅珠が別屋に宿る。前には池水ひろく三伏の夏をわすれ、めぐりは草木を植て四季のながめを尽し、ゆへ
(ゑ)
ある様にしなしたる市中の閑栖なり。都にもかゝる住居はまれなるべし。
鞆の津 の泉水
(仙酔)
といふ景地を左に見る。海の中へ出たる山に、松の色巌のかたちまで、わざと造りいでたらん仮山といふべし。あはれ、絵にうつさまほし。
よき程に山をならべて夏の海
「景にあふて唖のごとし」といへる如く、かばかりの景に、発句のつたなきぞ本意なし。讃岐の塩飽といふ浦山も跡に見なして、日中に
丸亀
につく。
金毘羅権現
は海の上を守り給ふ神なればとて、同船の人々と共に参る。道のほど百五十町余りとか。弘法大師誕生し給ひし屏風が浦・弥谷・
善通寺
も近しとぞ。左の方に飯の山あり。さらには山もなくて、よくにたればとて、讃岐富士と申すとか。
さても此御山のすがた像といふ獣の頭に似たれば、象頭山と申ならん。宮居の厳重なる、申も愚なるべし。此御神は今の世に都鄙をわかずこぞりて崇敬し奉る御山なれば、参詣の人袖をつらねて道もさりあへず、山下に市町ありて、都のおもひあり。
崇徳院の白峯の御陵・八嶋の浦も見ありかんとちぎりしに、心なき水主楫取の風のかはらぬうちに急ぎ給ふべしといふに、心あはたゞしく見ずなりぬ。丸亀の磯に乗捨し船にうつる比は、城の四
ツ
の鼓うつころ也。
誰まつべき草の戸ならねど、たゞ都の空恋しく、また淀舟に棹さして東山の菴に帰り、ひとり窓のもとに、越へ
(え)
来し八重の潮路のはるばるなるをおもひ出て、枕をそばだつれば、
すゞしさや浪にはあらで竹の音
俳 人
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