このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2013年
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小倉城
〜森鴎外〜
北九州市小倉北区城内に小倉城がある。
小倉城庭園
小倉城の城主、小笠原氏の別邸であった下屋敷(御遊所)跡を復元した大名の庭園と典型的な江戸時代の武家の書院を再現し、それに茶室や展示棟を備えた体験型の文化施設です。
小倉城
慶長7年(1602年)細川忠興公が築城した名城、小倉城。当時は「唐造り」とよばれ、全国唯一の珍しいものでした。現在の城は、昭和34年に在りし日の名城を再現したものです。
寛永9年(1632年)5月22日、
熊本
藩主加藤忠広は江戸参府途上品川宿で入府を止められ、
池上本門寺
にて改易の沙汰があり、出羽
庄内
藩主酒井忠勝にお預けとなる。
第二代藩主細川忠利が小倉から熊本 54万石に加増移封された。同年、播磨国
明石
藩より小笠原忠真が入部。
寛文4年(1664年)、
西山宗因
は小笠原忠真の招きに応じて西下し、翌年まで滞在。
文化2年(1805年)10月15日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で小倉に泊まる。
左へ曲り右に折れ又右に曲りて城門に入る。城門の外を大門町といふ。左に曲りて城門を出。城門の内の左の方に番所あり。大橋をわたりてやどりにつく。主を紅屋次兵衛といふ。去年やどりし所なり。
『小春紀行』
嘉永3年(1850年)8月29日、
吉田松陰
は長崎に遊学する途中で小倉城を訪れている。
小倉に至り魏々たる城門を入る。門内に衛卒ある。吾が藩の如し。市内を行くこと數町にして、又一門あり。河あり、濠に當つ。橋長三十間、二船抔小なるものは、此の河口に繋泊す。門内衛卒あり、又行くこと數町、城門を出づ、衛卒なし。門外濠あり。又行くこと數町、城門を出づ、衛卒あり。門外濠あり。小倉の制、市廛士邸ともに多くは城中に在り、繞らすに石疊を以てす。其の海に面する部は、石疊尤も嶮固に見ゆ。行旅の人をして皆其の城中を過ぎしむ。其の制甚だ善し。
『西遊日記』
旧第十二師団司令部の正門
明治8年(1875年)に、歩兵第十四連隊が小倉に設置されました。同18年(1885年)、小倉城松の丸跡に、既設の第十四連隊と福岡の歩兵第二十四連隊を管轄する歩兵第十二旅団本部が開設されました。ついで、日清戦争後の軍備拡張のため、同31年(1898年)小倉、大分、久留米、佐賀の各連隊や下関要塞砲兵連隊をもって第十二師団が生まれ、その司令部庁舎が本丸跡に建てられました。
この煉瓦造の正門は当時のもので、明治32年(1899年)6月から第十二師団の軍医部長を務めた
森鴎外
もこの門を通って登庁しました。
なお、司令部は軍縮により、大正14年(1925年)、久留米に移転することになりました。
大正10年(1921年)3月18日11時42分、
斎藤茂吉
は小倉着。市中を見物。
三月十八日。午前九時四十二分博多發、十一時四十二分小倉著、
市中を見物し、ついで
延命寺
に行き公園を逍遥、奇兵隊墓、名
物おやき餅。
春いまだ寒き小倉をわれは行く鴎外先生おもひ出して
公園の赤土のいろ奇兵隊戰士の墓延命寺の春は海潮音
『つゆじも』
大正11年(1922年)7月9日、森鴎外没。
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