このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
今年の旅日記
大宰府跡
〜『筑紫道記』〜
太宰府市観世音寺に特別史跡大宰府跡がある。
史蹟
大宰府阯・都府楼之址
従之壹町
特別史跡
大宰府跡
古代、西海道と呼ばれた九州一円を統轄していた大宰府は外交・貿易などの対外交渉の窓口として重要な任務を課せられていた。その機構は中央政府に準じ、地方機関としては最大規模の行政組織を有していた。
発掘調査によると、7世紀後半に掘立柱建物が建てられ、8世紀初頭に礎石を用いた朝堂院形式の建物に整備される。この建物は藤原純友の乱によって焼き打ちされたが、10世紀後半には立派に再建された。
現在見ることのできる礎石は、この再建期のもので、左上図は発掘調査の成果をもとにして復元したものである。これらの建物は藤原道真が「都府の楼はわずかに瓦の色を看る」とうたっているように壮大なもので、当時としては中央の都の建物にも劣らぬものであった。
正殿は重層風につくられ、屋根は入母屋ないしは寄棟造りであったと思われる。
このような政庁を中心にして周囲は、数多くの役所が配置され、その規模は平城・平安の都に次ぐ「天下の一都会」であった。
昭和61年3月 福岡県教育委員会
大宰府政庁南門跡
南門は政庁の南に開かれた正門である。両側には東西に延びる築地塀が取り付き政庁全体を囲んでいた。要人や外国の使節を応接するにふさわしい威容を誇っていたであろう。なお役人の日常の出入りには築地塀に設けられた脇門を利用していたと考えられる。
折しも体育の日で、運動会をやっていた。
文明12年(1480年)9月20日、
宗祇
は大宰府を訪れた。朝倉橘広庭宮と混同している。
染川に添ふ
(う)
て下るに、天智天皇の皇居木の丸殿の跡に馬をとゞむ。境内皆秋の野らにて大き成礎の数知らず。都府楼の月古を思ふに、昨日の観世寺の鐘、又聞が如し。天拝が嵩を遙かに見て、なを御神の名残も浅からず。
『筑紫道記』
明和8年(1771年)5月、蝶夢は大宰府都府楼を訪れている。
大宰府は都督府・鎮西府または西の都ともいへり。いにしへ此所に都より官人を下し給ひて、九州の政事を行しめ、かねて異賊の防ぎに備へ給ふとや。官府の跡は国府村の東、つき山といふ小山にあり。其ほとりの田の中に大なる礎その世のまゝにならびてあり。みな大さ六尺余、柱の立し跡はわたり二尺余。
『宰府紀行』
大宰府政庁跡の正殿に3基の石碑がある。
寛政元年(1789年)、福岡藩西学問所甘棠館
(かんとうかん)
の教授亀井南冥は「太宰府碑」を撰文。
明治4年(1871年)、乙金村(大野城市乙金)の大庄屋高原善七郎が自費で「都督府古址」の碑を建立。【中央】
明治13年(1880年)、「太宰府址碑」建立。福岡県令渡辺清の撰文。【左側】
大正3年(1914年)、「太宰府碑」建立。【右側】
明治29年(1896年)9月、
夏目漱石
は夫人と北部九州旅行をして都府楼を訪れている。
都府楼
鴫立つや礎残る事五十
9月25日(金)子規宛て書簡
明治43年(1910年)3月14日、河東碧梧桐は都府楼の跡を訪れている。
都府楼の跡の礎を三つ四つと数えながら、いずれも大きな貝殻を押し潰したように、中央に貝尻の凸起の残ったのを何の跡であろうなど考えておると、この頃までこの辺は一面の芝生であったのを、いつ畑に墾いたのかなど、薫風郎と竹眠とが話しておる。礎は早や二三寸も伸びた麦畑の中に、動かすことの出来ない盤石のように据っておるのである。これは恐らく門の跡で、奥のまだ鍬の着けてない芝生の礎が中央正殿の跡であろうという。
『続三千里』
昭和27年(1952年)5月20日、
水原秋桜子
は大宰府跡を訪れている。
大宰府跡 二句
吹降りに薊咲く野ぞかたむける
薊咲き幾とせの色草にしむ
『残鐘』
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