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私の旅日記

日見峠〜「芒塚句碑」〜
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国道34号日見トンネル東口の丘を上ると、「芒塚句碑」があった。


県指定有形文化財 芒塚句碑(3基)

  向井去来 (1651〜1704)の句碑で、天明4年(1784年)に長崎の俳人達が建立した。去来(名・兼時、字・元淵、通称・平次郎)は、儒医向井元升の二男として、長崎の後興善(うしろこうぜん)町(旧新興善小学校裏門付近)に生まれた。8歳の時に父とともに京都に移住、30歳半ばにして芭蕉の門人となり、蕉門十哲の一人と称された。 元禄2年(1689年)に一時帰郷、長崎に蕉門俳諧を伝えた。正面の去来「句碑」正面は、去来が長崎を離れるに際し、この地で見送りの人達に対して詠んだもので「君が手もまじるなるべし花薄 去来」、裏面に「天明四甲辰年三月吉旦 發企玉渕 崎陽蕉門末流其等謹建 石工正廣」と刻まれている。左側の「漢詩の碑」は、去来の紹介や漢詩が刻まれている。 右側の「献句の碑」は、去来を顕彰して安政3年(1856年)に建立したものと見られる。

正面の去来「句碑>」


君が手もまじるなるべし花薄

 元禄2年(1689年)5月、田上尼を送って長崎に赴き、秋に 簑田卯七 に送られて帰京。

   つくしよりかへりけるに、ひみといふ山
   にて卯七に別て

君がてもまじる成べしはな薄
   去来


 明和8年(1771年)5月、蝶夢は日見峠を越えて長崎へ。

 矢上の宿より、天草嶋手にとるばかりに見ゆ。日見といふ峠を越れば、やがて長崎の津也。年比のむつびあれば、勝木氏が家に入りて長途の疲をわする。


 文化2年(1805年)10月10日、 大田南畝 は長崎奉行所の仕事を終えて江戸に向かう。日見峠で芒塚を見ている。

文化二のとし、神無月十日、卯のときすくる頃、長崎を出て、あづまにかへる。

日見峠にのぼれば、網場(あば)の方の海みわたさる。峠の道を下る左に湧泉あり。夢想水の字を石に刻む。又ゆく、道の左に落柿舎去來の發句をきざむ。「君が手もましるなるべし花薄」とあり。折からも枯尾花にむかしを志のぶ。

『小春紀行』

 嘉永3年(1850年)9月4日、 吉田松陰 は長崎に遊学する途中で日見峠を越える。

日見坂を越ゆ。此の坂夥しく僵松(たおれまつ)あり。此の邊總て勤農なり。山の頂まで墾して畠とす。坂の頂に大村領、佐嘉領の界あり。


 明治43年(1910年)3月24日、河東碧梧桐は長崎街道に尾花塚があると聞いている。

あの展(の)びた家の末の山と山との間が、諫早に通ずる街道になるのであるが、そこに去来の尾花塚がある。と美哉が語る。長崎に住んでおったのは卯七であるが、その跡は残っておるか、何か遺物は無いか、など質問が出る。


 昭和7年(1932年)2月8日、 種田山頭火 は芒塚を見ている。

長崎から坂を登つて来て登り尽すと、日見墜道がある、それを通り抜けると、すぐ左側の小高い場所に去来の芒塚といふのがある。

      芒塚 去来

   君が手もまじるなるべし花薄

    ・けさはおわかれの卵をすゝる
    ・トンネルをぬけるより塚があつた(去来芒塚)
    ・もう転ぶまい道のたんぽゝ


 昭和30年(1955年)5月19日、 高浜虚子 は日見峠で芒塚を見ている。

芒塚程遠からじ守るべし

   五月十九日、日見峠に去来の芒塚を見、井上米一郎に寄す。

『七百五十句』

 昭和36年(1961年)9月、山口誓子は去来の碑について書いている。

 長崎の日見峠には昔から去来の碑があった。私は行って見なかったが、峠を越えた路傍にあって、高麗狗を載せた印材そっくりの碑石だそうだ。

   君が手もまじるなるべし花薄

 「猿蓑」に出ている句だ。「筑紫より帰りけるに日見といふ山にて卯七に別れて」という前書がついている。「筑紫より」長崎に帰っていたが、いよいよ京へ上るとて「日見といふ山にて卯七に別れて」だ。

 見送る者は、長崎から一ノ瀬街道を日見峠まで来て、別れを惜しんだ。下れば矢上。諫早、大村へと行く。峠は上下二里、「坂甚だ急峻、馬に乗る事難し」という難路だった。

 峠には芒の穂が動いていた。卯七が別れを惜しんで振る手が、芒の穂にまぎれるのだ。

 句碑は天明四年創建。

『句碑をたずねて』 (四国・九州路)

長崎街道

 長崎街道は、長崎から江戸や京・大阪までを結んだ九州一の大幹道で、正式には長崎道や長崎路と呼ばれた。江戸時代には 東海道中山道 などの五街道と呼ばれる街道があったが、これに次ぐ重要な街道が長崎街道のような脇街道であった。江戸時代の初めの頃は長崎〜浦上〜時津〜彼杵というコースが一般的であったが、その後は、長崎〜矢上〜諫早〜大村〜彼杵のコースが定着した。後者のコースが矢上道や諫早道と呼ばれたコースである。

 長崎から 小倉 までは57里、時代によっては違いがあるが25宿ほどあったといわれ、大人数であれば7日ほど、小人数ならば4日ほどの旅程であった。 出島和蘭商館 の商館長らが江戸参府で通った道として有名であるが、長崎奉行や各地の商人、文人墨客、幕末の志士ら様々な人々が行き交った街道でもあった。また、中国やオランダとの交易品などが輸送され、日本の政治・経済・外交・医学・文化などに貢献した重要な街道であった。

 江戸期における長崎の関門は日見峠の関所で、幕末期には旅人達の厳重な監視が行われたという。また、この峠は長崎街道の中でも「西に箱根」と呼ばれるほどの難所であった。

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