このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
〜
2013年
〜
西宮神社
〜芭蕉と鬼貫の句碑〜
西宮市社家町の国道43号沿いに
西宮神社
(HP)がある。
南門
西宮神社由緒
えびす様の総本社である西宮神社は、西宮のほぼ中央に鎮座し、平安時代末期には既に高倉上皇の御奉幣をはじめ、皇族神祇伯の参拝が著しく、社勢は極めて盛大であった。特に中世以後福の神と崇める信仰が盛んとなり、傀儡師の活動や謡曲や狂言を通じて愈々御神徳が拡まっていった。とりわけ徳川時代以後商業の発展に伴い、海上守護神・商賣繁盛の神として普く御神徳が発揚し、今日では全国津々浦々にわたって多くの人々の崇敬を受けている。
南門を入ると右手に芭蕉の句碑があった。
扇にて酒くむかげやちる桜
出典は
『笈の小文』
。
貞享5年(1688年)、吉野で詠まれた句。
平成5年(1993年)、芭蕉翁三百回忌を記念して西宮俳句協会建立。
表大門近くの松林に芭蕉と鬼貫の句碑があった。
はるもやゝけしきとゝのふ月の梅
はせを
にょつぽりと秋の空なる富士の山
おにつら
芭蕉の句の出典は
『薦獅子集』
(巴水編)。
元禄6年(1693年)1月20日、
深川芭蕉庵
から大垣の
木因
に宛てた書簡にある。
貞享3年(1686年)、
鬼貫
は仕官のため江戸へ下る。親友の鸞動
(らんどう)
から「一緒したいが、病気のため行けない。はっきりと富士の姿を見て知らせてほしい」と頼まれたが、鸞動は鬼貫の帰りを待たずに没した。伊丹の墨染寺にある塚の前で報告したのが、この句。
天保14年(1843年)、芭蕉百五十年忌に伊丹の照顏齋曲阜建立。
碑陰に17名の俳人の句が刻まれていたが、よく読めなかった。
『諸国翁墳記』
に「
西宮太神宮境内奉納二見形石碑之縮圖
」がある。
明和8年(1771年)4月13日、蝶夢は難波を船出。西宮神社に参詣している。
十三日といふ暁に、浪華江を漕いでゝ大物
(だいもの)
の浦に着く。これよりぞ旅の心にはなりけり。雨のふりいでければ、にしの宮の前に草枕をむすぶ。此神に首途をほのめかし奉るとて、
たびごろも足たゝぬ神もうらやまん
『宰府紀行』
文化元年(1804年)8月18日、
太田南畝
は小倉に赴く途中で西宮神社を参拝している。
西宮太神宮は宿はづれにあり。石の鳥居の前に駕籠たてゝかちよりあゆみ、西宮の神前にぬかづく。宮居はよろしけれど人げなく神さびたり。
『革令紀行』
西宮神社社殿
三連春日造という特異な構造。
昭和20年(1945年)8月6日、空襲のため焼失。
昭和36年(1961年)、復元。
私の旅日記
〜
2013年
〜に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください