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私の旅日記

興福寺〜碑巡り〜
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長崎市寺町に 興福寺 (HP)という寺がある。

県指定史跡 興福寺寺域

 興福寺は、元和9年(1623年)創建されたわが国最初の唐寺(とうでら)です。開基は江西省出身の眞圓、寺域は元鴎陽氏の別荘でした。眞圓は 寛永12年(1635年)まで住職を務め,その後二代目には、 眼鏡橋 を架けたといわれる黙子如定(もくすにょじょう)が住職に就きました。

 承応3年(1654年)三代逸然性融(いつねんしょうゆう)は、新しい禅宗の日本への伝来を熱望し、福建省黄檗山万福寺の隠元禅師を招き、隠元を住職に推薦し、自らは監寺に下りました。明暦元年(1655年)隠元が東上すると、翌2年正月から中興二代澄一道亮(ちんいどうりょう)が住職を勤めるようになりました。

 興福寺は、臨済宗黄檗派(明治9年から 黄檗宗 )発祥の地として記念すべき地となっています。

長崎市教育委員会

興福寺山門


県指定有形文化財 興福寺山門

 興福寺に最初に建てられた山門は、寛文3年(1663年)におこった市中大火にり類焼しました。現存するこの山門は、元禄3年(1690年)に再建されたものです。構造は三間三尺八脚門の入母屋造で、単層屋根・総朱塗となっている壮大な門です。細部は和風であり、日本人工匠の手によるものです。

 この地は、承応3年(1654年)中国から来朝した隠元隆キ(※「王」+「奇」)初登の地であるため、門の背面梁上には隠元筆「初登宝地」の扁額がかかっています。

長崎市教育委員会

門の背面梁上の扁額


明和8年(1771年)5月、蝶夢は興福寺を訪れている。

 一日、坡雲といふ人にさそはれて唐寺を巡拝す。興福寺は隠元禅師の開基にして諸堂すべて異国より材木をわたし、かの国の人の造りたるよしにて、我国の様にもあらず、結構たぐひなきたくみ也。


山門を入ると、 斎藤茂吉の歌碑 があった。


長崎の昼しづかなる唐寺や思ひいづれば白きさるすべりのはな

昭和36年(1961年)、興福寺保存会建立。

斎藤茂吉記念館によれば、16番目の茂吉歌碑である。

斎藤茂吉(1882〜1953)は長崎医専(医大)教授として大正6年(1917年)冬から3年3カ月長崎に住んだ。1913年歌集「赤光」を出版し、一躍注目をあびたが、長崎で写説性を確立した。

 大正6年(1917年)12月、 斎藤茂吉 は長崎に赴任して、大正10年(1921年)3月、帰郷。

長崎の晝しづかなる唐寺(たうでら)やおもひいづれば白きさるすべりのはな

長崎にて暮らししひまに蟲ばみし金塊集をあはれみにけり


本堂に向うと、有馬朗人の句碑があった。


長崎の坂動き出す三日かな

有馬朗人は俳誌「天為」主宰。(元、文部大臣・科学技術庁長官)

 平成11年(1999年)1月31日、「天為」長崎支部の宮田カイ子氏および同会有志建立。

 三日を迎えると、人びとはいっせいに活動を始める。その気配は、長崎の坂が動き出すかのようだ。

 坂の街、長崎の迎春を詠んだ句。

 句碑石材は、 久留米藩 主有馬家ご子孫である朗人先生の父祖の地、九州の銘石としてほまれ高い天山の御影石が用いられています。

興福寺本堂


国指定重要文化財 興福寺本堂(大雄宝殿)

 中国江西省の劉覚が元和6年(1620年)頃長崎に渡来、僧となり真圓と称してこの地に小庵を営んだ。南京地方出身の在留唐人が寺の創立を図り、媽祖堂・仏殿を建てて真圓を開基とした。寛永9年(1632年)唐僧黙子如定(もくすにょじょう)が渡来、2代住持となり寺観大いに整い、更に承応3年(1654年)唐僧隠元隆キ(※「王」+「奇」)を迎え、外堂・山門等一段と整った。元禄2年(1689年)再建された大雄宝殿が、慶応元年(1865年)暴風で大破したため、明治16年(1883年)再建されて現在に至る。中国工匠の手になる純粋の中国建築で、巧緻な彫刻・華麗な彩色・氷裂式組子(ひょうれつしきくみこ)の丸窓等珍しい。

長崎市教育委員会

黄檗宗祖隠元禅師東渡三百五十周年記念碑


鳥唱千林暁
慧日正東明
花開萬国春
黄檗隠元書

平成16年(2004年)7月5日、黄檗宗西日本地区協議会建立。

 中国明末の大禅匠た隠元隆キ(※「王」+「奇」)禅師が長崎に渡られて今年は三百五十周年に当たります。

 禅師は、長崎に1年滞在し、純粋な中国禅の指導に活動され、興福寺、崇福寺は全国から参禅を求める人々の大道場となりました。

 やがて、幕府より京都宇治に土地を賜り、黄檗宗 萬福寺 を創建、黄檗宗宗祖となられました。

 隠元禅師の来日は、鎌倉以来沈滞していた日本の禅に正しい光を当てるとともに、建築、工芸、絵画、詩文、書および茶礼、食分化などの広い分野に現代にいたる影響を与えております。

 隠元禅師の長崎到着、承応3年(1654年)7月5日を吉日とし、その清冽な宗風と偉業を末永く顕彰し、ここに隠元御書三幅対を記して記念碑といたします。

虚子・藺花(りんか)の句碑


俳諧の月の奉行や今も尚
   虚子

去来二百五十年忌に値遇の縁
   藺花

昭和34年(1959年)、建立。

長崎が生んだ俳人 向井去来 (1651〜1704)の二百五十年忌に寄せた 高浜虚子 と長崎俳壇のリーダー鍬先藺花の句。同門道祖尾万水(さいのうばんすい)の寄進。

芭蕉十哲の一人といわれた去来は文武に優れ、師の芭蕉は「西三十三ヶ国の俳諧奉行」と評し、信頼を寄せた。

虚子はこれを受けて、秋に亡くなった去来を、季語の「月」によせ「月の奉行」と詠い、今なお慕われる偉大な先人を偲んだ。

中島聖堂遺構大学門


県指定有形文化財   中島聖堂遺構大学門

 中島聖堂遺構大学門東京の 湯島聖堂 、佐賀県の多久聖堂とともに長崎聖堂は、日本三聖堂のひとつで最も古く由緒あるもの。

 儒学者向井元升が正保4年(1647年)、東上町に孔子廟(聖堂)と学舎を設立し、これを立山書院と称しました。寛文3年(1663年)の市中大火により類焼したので、正徳元年(1711年)、中島川沿岸に移転再建され 長崎聖堂と称しましたが、一般に地名をとって中島聖堂とよばれていました。

 ここに学ぶ者は多く、大いに栄えましたが、明治時代になり、杏壇門(きょうだんもん)と規模を縮小した大成殿を残すのみとなり、昭和34年(1959年)保存のために現在地に移設されました。杏壇門は、四脚門・単層桟瓦葺で左右に脇門をもち、門屏に大学章句の一節が彫られているため、俗に大学門とよばれています。

森澄雄句碑


山門は隠元自筆鳥雲に

 平成18年(2006年)、文化功労賞受賞記念として俳誌「杉」及び有志一同建立。

日本芸術院会員森澄雄先生の文化功労者顕彰を慶賀して師の故郷の地ここ長崎に建立す

 昭和27年(1952年)5月23日、 水原秋桜子 は興福寺を訪れている。

   興福寺

荒れざまのあはれなるかな魚板の黴

『残鐘』

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