このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2015年
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久留米城址
〜「画家青木繁の碑」〜
久留米市篠山町に久留米城址がある。
久留米城址
戦国時代より土豪・豪族の間に、この古城をめぐって興亡の歴史を綴りながら、元和7年(1621年)有馬豊氏丹波福知山より転封入城し、以降廃藩に至るまで11代250余年の間、有馬家累代の居城として藩府が置かれていました。
本城は北西に筑後川を自然の濠とし、天恵の地勢を活用したすこぶる険要の地にあります。築城法は平山多聞造りで、高い白土の城壁にそびえたつ2層と3層の7つの櫓があり、本丸東南隅の3層建の巽櫓は壮大な偉容を誇っていました。
現在は石垣だけが残り、城内には有馬三氏を祀る篠山神社や、有馬家資料を展示する有馬記念館があります。春は花見、6月はしょうぶ、8月25日には鈴虫祭と、市民の憩いの場となっています。
嘉永3年(1850年)12月25日、
吉田松陰
は長崎遊学の帰途、久留米に着く。
上野町迄三里半、久留米迄一里七合、此に着す。佐嘉・柳川、土地の平坦相同じ、久留米少しく殊なるを覺ゆ。
『西遊日記』
巽櫓跡に「画家青木繁の碑」があった。
わがくには筑紫の国や白日別母いますくに櫨多き国
青木繁は明治の画壇に流星のようにあらわれた天才であった。明治15年、旧有馬藩士青木兼吾の長男として久留米市荘島町に生まれ、同33年中学明善校を退学して上京、翌年東京美術学校西洋画科選科に入学した。その詩想ゆたかな独自の才華は在学中早くも開花して「よもつひらさか」の佳品を生み、明治37年卒業後、白馬会に傑作「海の幸」を発表してからは名声一時に美術界に高まった。その後さらに「日本武尊」「わだつみのいろこの宮」と宝玉のような魅力を秘める一群の名品を制作、その甘美な浪漫的芸術に明治の青春を切々とうたいあげている観がある。惜しいことには、画業半ばにして郷家の事情のため帰国のやむなきに至り、以後ふたたび画壇に返り咲くことがなかった。しかも、晩期の3年は不遇な放浪の生活に入り、ついに肺を病み、明治44年福岡市において孤独の中に没した。わずか29年にも満たぬ生涯であったが、その芸術が放つ不滅の光芒をいまは一人として疑うものがない。
河北倫明
昭和43年初夏
藤の花が咲いていた。
篠山神社
茶室「千松庵」の前に芭蕉の句碑があった。
まつ堂能牟椎乃木もあ李夏木立
出典は
『猿蓑』
(幻住庵の記)。
元禄3年(1690年)4月6日から7月23日まで芭蕉は国分山の
幻住庵
に滞在した。47歳の時である。
天保元年(1830年)の建立と伝えられるそうだ。
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