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私の旅日記2011年

丸亀城〜高浜虚子の句碑〜
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丸亀市一番丁の丸亀城に立ち寄ってみた。


丸亀城


現存天守閣 のある12城のひとつ。

日本100名城 のNo.78である。

丸亀城内の観光案内所でうちわ工房「竹」が「うちわの実演」をしていた。

大手一の門


見返り坂を上る。

見返り坂の紅葉


石垣の美

 一般に見返り坂と呼ばれるこの坂は、新緑の頃は楓の若葉が、秋は紅葉が美しい。右手頭上に三の丸の高石垣が、美しさと堅固さを誇ってそそり立つ。石垣の上端で垂直に立ち、徐々に緩やかな曲線を描き、遂に土に埋もれる優美な姿は、丸亀城壁の美しさである。この石垣の高さは約22メートルあって、本丸まで3段の高さは40メートルに近い。この城壁に丸亀城の風格を偲ぶことができる。

昭和24年(1949年)10月21日、 高浜虚子 は丸亀城址に遊ぶ。

稲むしろあり飯の山あり昔今

      十月二十一日 丸亀城址延寿閣に遊ぶ。

『六百五十句』

高浜虚子の句碑 があった。


稲むしろあり飯の山あり昔今

昭和24年秋、ここから丸亀平野をへだてて讃岐富士(飯の山)をながめて詠んだものである。

昭和25年(1950年)3月、市制施行五十周年に建立。

 昭和二十四年十月二十一日、丸亀市に来遊された虚子翁は、同市市制施行五十周年に際し、句碑を建てようという企画に賛し、延寿閣において一句を詠まれた。そして自ら丸亀城址に歩を運び、句碑建設の場所をも選定された。

 昭和二十五年三月中旬、句碑の建立が竣工した。碑は丸亀城址の見返り坂を登りつめた右側に高く聳えた扇型城壁の根元に東面して建って居る。虚子翁の希望により台石は使用されなかった。高さ十尺、底部の幅六尺、厚さ一尺五寸の自然石に、横三尺九寸五分、縦三尺二寸五分の額面を削り磨き、その右寄りに句を刻み、左寄り半分は空白のままに残してある。まことに均整のとれた構造である。(丸亀・吉田孤羊氏報)


天守閣


丸亀城 天守閣

江戸時代初期の建築。3層3重楼。屋根は南北棟の入母屋造、本瓦葺、軒裏丸重木型、総塗籠波形軒である。一層は高さ7.2メートル、石落し及び狭間付、西面を除き腰羽目板張り、上部塗籠一層屋上南北側面に唐破風付、二層は5.4メートルに7.2メートル。塗籠二層屋上東西両面に千鳥破風飾付、三層は3.6メートルに5.4メートル。塗籠各層の武者窓塗、各層の逓減割合はまとまりよく統一されている。内部は各層床板張、内部柱は一層20本、二層14本、三層2本で、隅柱は左右に添柱を建てている。用材は栂を主とし、桧と松を混用している。昭和25年天守解体修理の際、三層の壁の中から「万治三年三月」と墨書した板札が発見された。是によって寛永19年山崎氏着工の築造が京極氏によって完成されたことが判明した。

昭和32年3月20日、前記の板札が重要文化財に附指定された。

難しい説明である。

 NHK大河ドラマ「江」の姉「初」は初代丸亀城主京極高和の祖母にあたる。

 京極高和は安毛高政の子で、京極忠高の養子。京極忠高は京極高次の長男、側室の子である。高次の正室常高院(初)には子が無かった。

 寛文12年(1672年)、丸亀藩二代京極高豊公は京極氏歴代の菩提寺であった近江清滝寺を復興、歴代当主の墓を集めて並べ、寺院名を父高和の法名に基づき 徳源院 と改めた。

 貞亨2年(1685年)6月27日、大淀三千風は丸亀から四国遍路に門出する。10月20日、丸亀を立ち、播州室津へ。

○四國邊路海道記   今日既に貞享二丑六月廿七日丸龜 を首途す。抑此の邊路は弘法大師掟たまふ。信に權化のわざとはいひながら。山海の美景はさらなり。寺社窟江の奇怪。言語同斷の靈邊なり。心あらむ人はかならず一片の結血縁したまへかし。五年三年の觀禪にはまさり侍らん。人の心も柔和(なごか)に。馬上のおのこもおり。柴賤鍬長も笠をぬぐ。大師の陰徳かぎりなき證(しるし)なり。

『日本行脚文集』 (巻之四)

 文久元年(1861)10月、 坂本龍馬 は丸亀を訪れ矢野道場に立ち寄った。27歳の時である。

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