このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
〜
2015年
〜
唐津城
〜斎藤茂吉の歌碑〜
唐津市東城内の舞鶴公園に唐津城がある。
正面登り口
中段まで176段、上段まで231段。
唐津城
唐津城は慶長13年(1608年)に完成した平山城です。城を築いた寺沢志摩守広高は豊臣秀吉の側近で、築城には名護屋城の解体資材を用いたといわれています。
城は本丸・二ノ丸・三ノ丸・外曲輪に分かれ、本丸には天守台、二ノ丸には藩主の住居と藩庁があり、三ノ丸にはほとんどの藩士が住み、外曲輪には町人が居住し町奉行所がおかれていました。
城には寺沢氏以後は代々譜代の大久保・松平・土井・水野・小笠原の諸氏が入城しました。寺沢氏の12万3千石ではじまり、廃藩前は6万石でした。明治10年から本丸跡は現在の舞鶴公園として一般に開放され、藩主の住居は高校敷地となっています。
周囲約1キロ、面積4.3ヘクタール、海抜43メートルにそびえる現在の唐津城天守閣は天守台跡に慶長様式で、文化観光施設として昭和41年に完成したものです。天守閣は5層5階、地下1階で博物館、展望所等があり、展望所からは、松浦潟の全景が一望におさめられます。また唐津城は別名舞鶴城ともいわれ、観光唐津のシンボルとして皆様に親しまれています。
石段の途中に踊子草が群生していた。
シソ科の花である。
大正9年(1920年)8月30日、斎藤茂吉は長崎から唐津に着き
木村屋旅館
に投宿。8月31日、唐津城跡に登る。。
八月三十一日。木村屋旅館滞在。
城址にのぼり來りて蹲
(しやが)
むとき石垣にてる月のかげの明るさ
『つゆじも』
中段の展望広場に斎藤茂吉の歌碑があった。
松浦河月あかくして人の世のかなしみさへも隠さふべしや
出典は第3歌集『つゆじも』。
「
九月五日。高谷寛と滿島にわたる
」とある。
昭和51年(1976年) 11月10日、松浦文化連盟建立。
斎藤茂吉記念館によれば、50番目の茂吉の歌碑である。
喀血後の療養を兼ね大正9年8月30日長崎からこの地を訪れた歌人
斎藤茂吉
はこの唐津詠歌ほか24首を残し9月11日古湯に発った。
天然記念物「紫フジ」は、まだ咲き始めたばかりであった。
櫓門
延宝6年(1678年)夏、
山口素堂
は江戸を立ち、長崎赴く。帰途、肥後唐津で越年。
此ごろの亀を
二万の里唐津と申せ君が春
『富士石』
唐津城天守閣
貞亨2年(1685年)3月、大淀三千風は唐津を訪れている。
偖
(さて)
唐津の城。海中に峙
(そばたち)
。町屋千軒繁昌の地なり。かつ又藤原廣嗣廟舎鏡宮。松浦川。草野山。浮嶽。この峰より釜山海みゆ。衣干山。神集
(かれは)
島。此外限なき名所名所。略。
『日本行脚文集』
(巻之四)
私の旅日記
〜
2015年
〜に戻る。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください