このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2015年

高島秋帆旧宅〜高浜虚子〜
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長崎市東小島町に「高島秋帆旧宅」があるというので、行ってみた。

国指定史跡 高島秋帆旧宅

 高島四郎太夫茂敦は秋帆と号し、家は代々町年寄を務めていました。秋帆は、儒学・書道・絵画などを修め、荻野流砲術を究めた上に野戦砲・銃隊の射撃と部隊の様式調練を実施して周囲を驚かせました。

 高島家は、大村町(現在の万才町)に本宅がありましたが、天保9年(1838年)、市中の大火により類焼したので、ここ小島郷の「雨声楼(うせいろう)」とよばれる別邸に移り住みました。建物は原爆で大破し解体され、現在は、石垣・土塀・井戸・砲痕石などが残っています。

長崎市教育委員会

高島秋帆旧宅


高島秋帆 寛政10年(1798年)〜慶応2年(1866年)

 高島四郎太夫茂敦(秋帆)は町年寄高島家の11代当主です。萩野流砲術を父に学び、銃砲や砲弾の鋳型をオランダから輸入し、西洋式砲術を研究しました。

 また、「天保上書」を幕府に上申し、海防等の備えと西洋の軍事技術の導入を説きました。そして武蔵国徳丸原(現在の東京都板橋区高島平)での西洋式訓練を実施するなど功績を挙げましたが、天保13年(1842年)に無実の罪で12年間捕らえられました。その後は後進の指導にあたり、江戸で没しました。墓も当地にありますが、寺町の高島家墓地(市指定史跡)にも、秋帆と家族の墓碑が門人によって建てられています。

長崎市教育委員会

 高島秋帆旧宅は、秋帆の父、茂紀(しげのり)が別邸として文化3年(1806年)に建てたものです。瓦葺木造2階の建物であり、2階にあった客室から眺める、盛夏の雨垂れの光景にちなんで、秋帆は客室を「雨声楼(うせいろう)」と名付けました。

 秋帆は天保9年(1838年)に大村町(現在の万才町)からこの地に移り住んで、天保13年(1842年)に捕われるまでの5年間住みました。

高島秋帆旧宅内石倉


 高島秋帆の硝煙蔵あるいは倉庫だったと言われています。

 高島秋帆旧宅が国史跡に指定された、大正11年(1922年)に、この石倉はすでに建築されていましたが、いつ建築されたのか正確には特定できていません。

 現存する長崎市内の倉のなかで石造のものは珍しく、石造倉庫の貴重な遺構です。

長崎市教育委員会

石垣と井戸


 大正6年(1917年)、高島秋帆旧宅に待合「辰巳」を営業。

 大正9年(1920年)5月30日、 斎藤茂吉 は「辰巳」で夕餐会。

      五月三十日。雷が丘、雨聲樓(秋帆別邸)辰巳にて夕餐會等を
      催す

萱草の花さくころとなりし庭なつかしみつつ吾等つどひぬ


 大正11年(1921年)3月20日、 高浜虚子 は「高島秋帆旧宅」を訪れている。

 散會後、茨花君の案内で高島秋帆の別業であつたといふ丸山の「たつみ」と言ふのに赴く。既に十時を過ぎて居たのであるが、折角の好意であるから赴くことにする。主人公茨花君を始めとして浅茅、庫輔、彦影、及び佐世保の紅々君が一座した。歌妓三四輩が席に侍した。秋帆の居間であつた梅の間といふのを見る。揮毫などして此家を辭したのが翌日午前一時半頃であつた。

「肥前の國まで」

昭和4年(1929年)、「辰巳」を崇福寺門前に新築移転。

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