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私の旅日記

平戸城〜松浦家〜
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平戸市岩の上町の高台に平戸城がある。

北虎口門


 松浦家第26代法印鎮信(しげのぶ)により慶長4年(1599年)この地に城郭が築かれた。これが日の岳城であるが14年後の慶長18年焼失し廃城となった。その後松浦家天祥鎮信は城郭再築をはかり山鹿素行とともに縄張りの検討を開始した。元禄15年(1702年)には松浦家第30代雄香棟(ゆうこうたかし)が幕府に再築許可申請を行い、翌年許可を得た。宝永元年築城普請をはじめ享保3年(1718年)2月に完成した。これが平戸城(亀岡城)であり、本丸、二の丸、三の丸外郭より構成され、日の岳の輪郭が利用されている。総面積17ヘクタールで御殿は二ノ丸の中央部に築かれていた。築城には延5万6千人の人夫と銀969貫が費やされている。

天守閣


 平戸松浦氏は秀吉政権下の天正15年(1587年)、63,200石の大名となった。文禄慶長の役では約6,000の軍兵を率いて朝鮮半島を転戦し、帰還後の慶長4年(1599年)初めてここに「日の岳城」を築いたが、同18年に大火により焼失した。

日本100名城 90番である。

 嘉永3年(1850年)9月14日、 吉田松陰 は日の浦(平戸市田平町)から船に乗り、平戸城下へ入った。松陰は11月6日、船で平戸をたち、再び長崎を目指す。

一十四日、 晴、江向ヲ發シ、山坂ヲ行事三里ニテ、日野浦ニ至ル、舟行一里ニテ平戸城下ニ至ル、此間、瀬戸トミヘ(ニテ)水勢ノ迅疾、赤間關ノ如シ(ヨリモ甚)、琉球船十四五艘、海上に見受タリ、帆半ヨリ上ハ白、半ヨリ下ハ黒也、平戸ノ港ニ至レハ關舟・小早等多苦飾リタルヲ見タリ、船ノ徽号、四半ニ三星也、

『西遊日記』

平戸ザビエル記念教会 が見える。


最教寺の三重塔が見える。


平戸大橋 が見える。


大正8年(1919年)10月25日、 斎藤茂吉 は平戸を訪れている。

      十月二十五日、平戸行。平戸丸や旅館。小國李果に會ふ。崎方
      町阿蘭陀塀、阿蘭陀井戸、龜甲城址、龜岡神社等

阿蘭陀の商人(あきびと)たちは自らの生業のためにこれを遺しき

あはれなる物語さへありけむを人は過ぎつつよすがだになし

われは見つ肥前平戸の年ふりし神楽の舞を海わたり來て

『つゆじも』

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