このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
黒髪庵
〜翁塚〜
瑞泉寺
から黒髪庵へ。
黒髪庵
史跡
翁塚と黒髪庵
井波町指定文化財
庵の境内にある翁塚は、元禄13年(1700年)に、芭蕉の門弟であった井波の
浪化
が、師を慕って建てた塚である。
瑞泉寺十一代の浪化は、近江の義仲寺にある芭蕉の墓から小石3個を持ち帰り、この塚を建てた。台座に「是本邦翁塚之始也矣」とある。2年後の元禄15年には、芭蕉の遺髪も納められた。この翁塚は、伊賀上野の
故郷塚
、
義仲寺
の本廟とともに芭蕉三塚の1つとされている。
黒髪庵は蕉門の心を不朽に残すため、北陸の俳人等が1板1柱を寄進して、文化7年(1810) 年に建てられた。
ここでの句会には、文台・硯・水引だけが利用され、食事は茶飯と一汁一菜の簡素なものであった。町を訪れた俳人は、この庵で手厚くもてなされ、出発にはタバコ・鼻紙・ワラジが贈られた。
その後、町の俳人達によって明治15年(1882年)に芭蕉堂が建てられ、堂内に芭蕉像が安置された。
しつらひは旅のやうなり魂祭り
浪化
南砺市教育委員会
門を入ると、三浦樗良の句碑があった。
山寺や誰もまいらぬ涅槃像
樗良は伊勢の俳人。
樗良は「剃髪塚」を見ている。
蕉の剃髪を埋み、碑を建給ひ、其
角筆をとりてばせを翁と書たり。
なつかしき事のかぎりなければ。
野ざらしの露よしぐれよ剃髪
(おそり)
塚
『樗良発句集』
安永9年(1780年)、山田にて52歳で没。
芭蕉堂
明治42年(1909年)8月5日、河東碧梧桐は黒髪庵を訪ねている。
また浄蓮寺というのは、俳諧の道場に設けられたものでない、浄土宗の末寺の名で、昔は多少の眺望もあったため、自然俳人会合の場所となったのであろうということ、その寺内に、義仲寺の小石を拾うて築かれたという、翁塚があり、塚の傍に黒髪庵と名づけた僅に膝を入るるに足る土間の小庵があるが、その庵中に、火災に焼け残った芭蕉の位牌(浪化上人書)のあること、八乙女山というのは、井波の町の背
(うし)
ろに立つ屏風のような山であること、鷄塚は瑞泉寺を距る数丁の処にあること、林紅は同じ大谷派の末寺誓立寺の二男にうまれた人で名を是三といい、観山氏はその遠裔であること、上人に「林紅亭興行」として紅梅の句があるが、誓立寺の門内に今なお存する一抱えにも余る老紅梅を詠ぜられたのであろうということ、司晨楼には当時この地に遊んだ天下の俳人の落書を貼りつけてあったのであるが、火炎のためその跡を止めぬということ、近くでは樗良など最も長く滞留しておったらしく、藜の杖、網代笠の外書画等数々の筐
(かたみ)
を遺してあること、等を知った。
浪化上人の真蹟を拝して
御筆の御年の程も涼しけれ
『続三千里』
「翁塚」があった。
浪化の句碑
鶏塚に耳あてて聞くいとどかな
『浪化上人發句集』
に収録されているが、出典は不明。
此日は高きに登る日也と、二三子を誘て八乙女山にの
ほり、かつ風穴にいたる。その所は多くの坂を過て、
平らかなる處あり。そのあたりみな小笹生茂て道も見
えす。又少うつ高き所あり。その腹についたる横穴な
り。口は方にして少長みあり。うちは苺むして、岩も
てたゝみたるやうに見え侍る。常に濕氣をふくめり。
又鷄塚とて形は一里塚ほとにして、二つ相むかへり。
處の者の云、この塚元日の朝は鷄の聲すと云傳へたり。
いかなる事にやゆゑをしらす。
鷄塚に耳あてゝ聞くいとゝかな
『浪化上人發句集』
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