芭蕉逗留泉屋の趾
から芭蕉の館へ。
芭蕉の館に『温泉頌』と『奥の細道』の俳文碑があった。
北海の磯つたひして加州やまなかの湧湯に浴ス。里人の曰、このところは扶桑三の名湯のその一なりと。まことに浴することしばしばなれば、皮肉うるほひ筋肉に通りて、心身ゆるく偏に顔色をとどむるここちす。彼桃源も船をうしなひ慈童か菊の枝折もしらす
はせを
やまなかや菊はたおらじ湯のにほひ
明治42年(1909年)9月26日、河東碧梧桐は芭蕉の句について書いている。
九月二十六日。半晴。
ここの温泉は、内湯というものがなくて、菊の湯、葦の湯、白鷲の湯の三つに分れておる。白鷲の湯は近頃出来たので、高等湯ともいう。一回の入湯料が十銭である。葦の湯は五銭、菊の湯は俗にいう総湯で二銭である。芭蕉が「加州山中の湧湯」と書いた時分とは面目の改まっておることは言うまでもない。自然今の山中を見ては「山中や菊はたをらじ湯の匂ひ」という句意も判然せぬ。「彼桃源も舟を失ひ慈童の菊の枝折もしらず」という文章を待って、始めて解すべきである。
金沢の北枝は芭蕉を送ってこの地に曾良との三吟を止め、曽良はここに病んで「行き行きて倒れ臥すとも」と悲曲の一句を残した。俳句の上にも想い出の多い地である。
『奥の細道』では「山中や菊はたおらぬ湯の匂」。
曾良は腹を病て、いせのくに長島といふところにゆかりあれば、先立て行に、
行き行きてたふれふすとも萩の原 曾良
と書置たり。行もののかなしみ、のこるもののうらみ、雙鳧(そうふ)のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、
けふよりや書付消さむ笠の露
「芭蕉と曾良の別れ」の像があった。
奥の細道
芭蕉と曾良の別れ
元禄2年、俳聖松尾芭蕉は弟子の曽良を伴い江戸から奥の細道の旅に出て、山中温泉に8泊9日滞在した。4ヵ月にわたる二人旅は、この山中温泉で終わりを告げることとなる。別れに際し二人はそれぞれの思いを句に託した。
ゆきゆきてたふれ伏すとも萩の原 曾良
今日よりや書き付け消さん笠の露 芭蕉
苦楽を共にした2羽の鳥が今日から1羽1羽になって雲間に迷うようだ。笠に書いた「同行二人」の文字を落ちる涙で消すことにしようと、芭蕉の淋しい心が伝わってきます。
昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、「芭蕉と曾良の別れ」について書いている。
此處で御伴の曾良は腹をやんで別れ去る、ひそかに思ふに、温泉で腹を病んだなら、寧ろ留まつて療養すべきと思ふに、伊勢まで行つてしまつたとは又どう云ふものか、
元禄2年(1689年)8月5日、芭蕉は
北枝
と
那谷寺
に赴き、再び小松へ。
曽良
は
全昌寺
へ。
一 五日 朝曇。昼時分、翁・北枝、那谷へ趣。明日、於二小松一、生駒万子為出会也。従順シテ帰テ、艮(即)刻、立。大正侍ニ趣。全昌寺へ申刻着、宿。夜中、雨降ル。
『曽良随行日記』
馬かりて燕追行わかれかな
| 北枝
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花野みだるゝ山の曲(まがり)め
| 曽良
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月よしと相撲に袴踏ぬきて
| 翁
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鞘ばしりしをやがてとめけり
| 北枝
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芭蕉像
芭蕉に関する貴重な資料も展示されていた。
大木戸門址
へ。
『奥の細道』
〜北陸〜
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