このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

『奥の細道』   〜北陸〜


芭蕉逗留泉屋の趾

〜虚子の句碑〜

「かがり吉祥亭」 からゆげ街道を歩く。


よしのや依緑園の向かいに芭蕉の句碑があった。


湯の名残今宵は肌の寒からむ

 元禄2年(1689年)8月5日(陽暦9月18日)、山中温泉最後の日に泉屋の主人桃妖に書き与えた別れの句。

『柞原集』 に収録されている。

泉屋の当主久米之介は当時14歳の少年。

 あるじとする物は、久米之助とて、いまだ小童也。かれが父俳諧を好み、洛の貞室、若輩のむかし、爰に来りし比、風雅に辱しめられて、洛に帰て貞徳の門人となって世にしらる。功名の後、此一村判詞の料を請ずと云。今更むかし語とはなりぬ。

『奥の細道』

芭蕉は桃妖の俳号を与えた。

   加賀山中桃妖に名をツけ玉ひて

桃の木の其の葉ちらすな秋の風


さらにゆげ街道を歩き、北国銀行へ。


北国銀行脇の民家に「芭蕉逗留泉屋の趾」の碑があった。


湯の名残今宵ハ肌の寒からむ

昭和54年(1979年)2月、山中温泉観光協会建立。

 明治42年(1909年)9月26日、河東碧梧桐は「泉屋」のことを書いている。

 「山中少年」と肩書した元禄時代の桃妖、桃英は芭蕉行脚後に出来た土地の俳人であった。その句は北枝、句空などの著に散見する。その家は「泉屋」というてやはり温泉宿であった。今の扇屋の隣、白鷺の湯の建っておる場所がそれであったという。


 昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、泉屋のことを書いている。

 山中の湯の宿の主人俳諧巧者のほまれあつた者の記事、細道本文にあるが、此の湯の宿は今以て引つゞいて居ると云ふ話、


 昭和6年(1931年)1月7日、 与謝野晶子 は山中温泉を車で一巡する。

山中の湯場の露路よりいにしへの山路につづき水早く行く

「深林の香」

 昭和18年(1943年)11月18日、 高浜虚子 は山中温泉に遊ぶ。

北国のしぐるる汽車の混み合ひて

温泉(ゆ)に入りて暫しあたたか紅葉冷え

不思議やな汝(な)れが踊れば吾が泣く

      十一月十八日 山中、吉野屋に一泊。愛子の母われを慰めん
      と謡ひ踊り愛子も亦踊る。


 昭和27年(1952年)9月28日、 高浜虚子 は山中温泉俳句大会に出席。

吉野屋の愛子踊りし部屋ぞこれ

      九月二十八日 俳句大会。河鹿荘。


さびしかりしよべの十日の月を思ふ

「二十七日。つばめ西下。山中温泉俳句会に出席。河鹿荘泊り」とありる。十年前には愛子たちも共に吉野屋に泊つた思ひ出がある。私等は吉野屋を訪ねて、十年前愛子等の踊つた広間を見たりしてなつかしんだ。

『虚子一日一句』 (星野立子編)

山中温泉「菊の湯」裏に 高浜虚子の句碑 があった。


秋水の音高まりて人を想ふ

昭和28年(1953年)10月7日、建立。

高濱虚子 先生、昭和18年11月18日山中に遊び、森田愛子を主とせる小説『虹』成る。昭和27年9月28日、再び山中に杖を曳かれ、翌早朝旅舎にて

秋水の音高まりて人を想ふ

の句成る。即ち遠く芭蕉を想ひ、近く愛子を想ふの句。

 昭和28年10月

伊藤柏翠 誌す

 昭和二十七年、山中温泉で全国俳句大会が催された時の作である。この句碑が翌昭和二十八年十月七日、同地菊の湯脇に建てられ、二回目の大会がまた同地で催された。菊の湯は同地の共同浴場であり、いま新たにその向うには大きな温泉会館という共同浴場が新築され、この句碑は丁度そこの広場の雑沓の中の、泉水の如く浴泉が流れる小区域の造園の一隅に位置して居る。高さ五尺五寸、幅一尺八寸の扁平碑に、縦一行に刻まれてある。


 昭和40年(1965年)、 山口誓子 は山中温泉で虚子の句碑を見ている。

  那谷 から山代温泉を過ぎ、大聖寺川を渡って遡る。川上に山中の町が見える。

 菊の湯の前に出た。昔の総湯である。鉄筋コンクリート造り。その前の空地に、虚子の句碑が立っている。

   秋水の音高まりて人を想ふ

   (中 略)

 この句の「人を想ふ」の「人」は漠然としている。 須磨浦公園 の句碑、「月を思ひ人を思ひて須磨にあり」の「人」は子規にきまっているが、この句の「人」を柏翠は、芭蕉であり、愛子であると云うが、ほんとは愛子かも知れぬ。芭蕉はつけ足りかも知れぬ。

『句碑をたずねて』 (奥の細道)

東尋坊 に虚子・愛子・柏翠句碑がある。

芭蕉の館 へ。

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