このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2011年
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文学の道公園
〜碑巡り〜
諏訪市小和田南に「文学の道公園」がある。
平成元年(1989年)11月、ふるさと創生事業として旧島崎川に総事業費1億円をかけて完成された。
諏訪にゆかりのある19名の文学者の石碑が配置されている。
「諏訪にゆかりのある文学者」といっても、知らない人が多い。
知っている人の文学碑を拾ってみた。
曽良
の句碑
袂から春は出てたり松葉銭
延宝4年(1676年)正月、28歳の句。
「曽良」の俳号が初めて使われた句だそうだ。
河西周徳の句碑
呵られたむかし戀しや雪まるけ
『雪満呂気』
(周徳編)巻末の句である。
元禄10年(1697年)、上諏訪町に生まれる。露沾の門人水間沾徳に師事。曽良の姉の子を娶る。
宝暦3年(1753年)、59歳で没。
正願寺
に墓がある。
四賀光子
の歌碑
不二を正座に八つと甲斐駒侍立志て雲乃どん帳志つ可に下りくる
明治18年(1885年)、長野市で生まれる。本名は太田みつ。父は諏訪郡四賀村の出身。
明治42年(1909年)、東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)卒業とともに太田水穂と結婚。
藤森素檗
の句碑
杖さえも若菜色なるあした哉
宝暦8年(1758年)、上諏訪町に生まれる。加藤暁台に俳諧を学ぶ。
福島の北の辻にある
曽良の句碑
に素檗の句が並刻されている。
新田次郎の文学碑
『武田信玄』 第一回 早春孤影
晴信は石水寺へ馬を走らせることが好きだった。こゝは彼が生まれたところであり、武田の館のある
躑躅が崎
から、馬を走らせるに丁度よい距離でもあった。
明治45年(1912年)、上諏訪町角田新田に生まれる。本名は藤原寛人。
昭和31年(1956年)、『強力伝』で第34回直木賞を受賞。
昭和55年(1980年)2月15日、心筋梗塞のため急逝。
正願寺
に墓がある。
島木赤彦
の文学碑
諏訪の殿様牡丹餅好きで
宵に九つ朝七つ
二つのこして袋に入れて馬に乗るとて
ぼたんと落し
取るにや取られず棄てるにや惜しし
そこで家来衆皆目をつぶる
家来まなこは
つぶりもせうが
屋根の鴉が見てござる
明治9年(1876年)、上諏訪角間の塚原家に生まれ、下諏訪の久保田家を継ぐ。本名俊彦。
大正3年(1914年)、上京し
伊藤左千夫
に替って『アララギ』の編集に当たる。
岩波其残の句碑
四方拝すま勢られしか山可つら
文化12年(1815年)5月12日、其残は文出村の山田家に生まれる。幼名は鉄三。
天保元年(1830年)、高島藩士の
久保島若人
に師事。
安政3年(1856年)、母の実家の岩波氏を継ぐ。
明治27年(1894年)4月5日、80歳で没。
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