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私の旅日記2009年

全昌寺〜碑巡り〜
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加賀市大聖寺神明町に全昌寺という寺がある。


耳聞山全昌寺


拝観料は500円。

 元禄2年(1689年)8月6日(陽暦9月19日)、芭蕉は全昌寺に泊まっている。

『奥の細道』の一節が刻まれていた。


大聖持の城外、全昌寺と云寺に泊る。猶かゝの地也。曾良も前の夜此寺に泊て、

     終夜(よもすから)秋風聞やうらの山

と残ス。一夜の隔(へたて)、千里におなし。我も秋風を聴て衆寮に臥。明ほのゝ空ちかう読経聞ゆるに、板鐘鳴て食堂に入。けふは越前の国へと心早卒にして、堂下に下ル。若き僧共紙硯をかゝへて、階(きさはし)のもとまて追来ル。折節庭中の柳散れは、

     庭掃て出はや寺に散柳

とりあへぬ一句草鞋なから書捨ツ。

芭蕉の自筆だそうだ。

芭蕉は 吉崎の入江 へ。

 元禄14年(1701年)、 支考 は全昌寺を訪れている。

なにかし全昌寺といふ寺は、先師一夜の秋をわひて、庭はきて出はや寺にちる柳といへる、其柳のあともゆかしかりけれは、人々此みてらにまいりて、

   青柳の若葉や秋もまのあたり


 寛延2年(1749年)、幾暁は全昌寺を訪ねている。

   全昌禅寺 はむかし祖翁の杖とめられし
   古跡にして庭はいて出ばやの柳ぞ
   今にありときくものから、いざとて
   まふでけるが、こゝろなくも梢などみな
   打伐つて、其木とばかり淋うたてる
   に、葉と覚へて一筋二筋のこれる
   など、此道の糸筋を伝ひてと、祖翁の
   常語もおもひ合せて、変化のさま哀
   なりけり。

蝉うたふ枝に糸なし鉈のあと
   幾暁


全昌寺に「者勢哉(はせを)塚」があった。


右側面に芭蕉の句が刻まれている。

庭掃ていつるや寺のちる柳

大聖寺の俳人二宮木圭(ふたみやぼくけい)建立。

『諸国翁墳記』 に「柳 塚 加州大聖寺アリ 連中建」とある。

 明治42年(1909年)9月30日、河東碧梧桐は全昌寺を訪ねて芭蕉の句碑を見ている。

 朝全昌寺を尋ねた。「夜よもすから秋風きくや裏の山」の句はいつ口に吟じても、旅愁に堪えない者をして常に暗涙に咽ばしめる。「 行き行きて倒れ臥すとも萩の原 」と詠んで山中に芭蕉と別れた当時は、絶望的であったとは言え、離別の情に制せられて、感情は偏に昂進していた。先ず一人全昌寺に一宿して、感情の弛(ゆる)ぶと同時に、越し方を忍び、行末を思う心の寛ぎを得た。人をして思うに堪えざらしめるのは、その心の昂った時よりも、却て寛ぎを得た時だ。情に激した場合よりも、理性の働く余地のある際である。寺僧の相手にもならず、一人病躯を天井の高い一間に横たえて、油の絶えなんとする燈火と相対した時、走馬燈の如く往来する感想は言うまでもなく二月(ママ)江戸を発足して以来の難行苦行であった。

(中 略)

 本堂前の境内には「庭掃いて寺をまかるや散る柳」の芭蕉の句碑が立っていた。字の雨蝕しておる塩梅を見ても、近頃建てたものではない。句碑の後ろに、尺に余る小さな柳が植えてあった。散る柳当時の何代目かの後継ぎであるとのことであった。


 大正14年(1925年)9月1日、 荻原井泉水 は全昌寺で「はせを塚」を見ている。

門を出る時、門にちかく「はせを塚」と書いた句碑が見当った。「庭掃いて」の句が書入れてある、建立の年代などは苔むして全く解らず、萩の花が鮮かに咲きしなだれていた。

『随筆芭蕉』 (永平寺まで)

「はせを塚」の右に 曾良の句碑 もあった。


終夜(よもすから)秋風きくやうらの山

8月5日、曽良は 山中温泉 で芭蕉と別れ、全昌寺に泊まっている。

 昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、全昌寺を訪ねた。

 加賀の国山中の湯より、大聖寺の町に出て全昌寺を訪ふて見る、曾良が師匠に別れて、百餘日の侍者の生活を放たれ、しみじみと只一人の秋の風を、よもすがら聞いたお寺、(中略)曾良一宿のあくる夜、翁も此寺に一泊す、一夜のちがひならば、同行ありてもよささうなもの、此頃は此寺雲水なども多かつたと見え、若き僧ども紙硯かゝへ、階のもとまで追ひ來つたとあるが、今は静かなやうす、


 昭和40年(1965年)、 山口誓子 は全昌寺で「はせを塚」と曾良の句碑を見ている。

 全昌寺の門を入って、左へ廻ると、「はせを塚」と曾良の句碑が並んでいる。

 曾良の句はもとより秋風の句だが

   終夜秋風きくやうらの山

と書かれている。

 曽良は芭蕉に別れて、ひとりその寺に泊った。芭蕉を思えば眠りが浅く、裏の山に吹く秋風を夜通し耳にしたのだ。

 この句には、芭蕉を思う弟子の情が籠っている。秀句だ。

 「はせを塚」は「者勢越塚」と書いてある。人泣かせだ。碑の右側に句が刻んであるようだ。かすれて読めぬ。「庭」の字、「ち」の字を僅かに読み得て、

   庭掃ていでばや寺にちる柳

かと思う。芭蕉が出発の間際に乞われて書いた句である。

『句碑をたずねて』 (奥の細道)

「はせを塚」の左に芭蕉の句碑があった。


庭掃いて出はや寺にちる柳

二宮木圭の句碑


爪枝は如意のことなり柳蔭

流水の句碑


音たへぬ古池にそふ柳かな

深田久弥の句碑があった。


翁忌や師をつぐ故に師を模さず

深田久弥は「はつしほ句会創始者」。俳号は九山。

全昌寺本堂


曹洞宗 の寺である。

杉風 作の芭蕉木像があった。


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