このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芭蕉の句碑


うきわれをさひしからせよ秋の寺

桑名市長島町西外面に大智院という寺がある。


大智院山門


山門の手前に 曽良の句碑 があった。


   伊勢の国長嶋といふ云所にゆかりあれハ
   先立ちて行くに

ゆきゆきてたふれ伏とも萩の原

平成6年(1994年)5月22日、河合曽良285回忌に大智院芭蕉曽良の会建立。

芭蕉遺跡大智院 桑名市教育委員会

「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。」との書きだしで知られる芭蕉翁の紀行文『奥の細道』の一節に、

「曽良は腹を病みて、伊勢の国長島といふ所にゆかりあれば、先立ちて行くに

   行き行きて倒れ伏すとも萩の原   曽良

と、書き置きたり。行く者の悲しみ、残る者の憾み、隻鳧(せきふ)の別れて、雲に迷うがごとし。予も又、

   今日よりや書付消さん笠の露   芭蕉」

と、したためられています。

 其の、長島のゆかりとは、当院長松山大智院であり、第四世住職法印良成(曽良の叔父)のことです。

 この事項については、曽良の『奥の細道随行日記』に、くわしく誌されています。

 その日記によれば、元禄2年8月5日に 山中温泉 泉屋で芭蕉と別れ、15日に当院に着き休養を取り、9月2日に芭蕉を出迎えに 大垣 へ出掛け、6日に翁とともに大智院に来り逗留、9日に 伊勢神宮 ご遷宮参拝のため出立されています。

 その折、書きのこされた芭蕉の挨拶句が、当院にあります。

「伊勢の国長島大智院に信宿す。

   うきわれをさびしがらせよ秋の寺」

この句は、のち元禄4年 『嵯峨日記』 に、

「うきわれをさびしがらせよかんこどりとは、ある寺に独居て云ひし句なり」

と推敲のうえ、「秋の寺」を「かんこどり」と改めて書かれています。

 当院門前にある「蕉翁信宿処」の石碑は、藩主増山正賢(雪斎)公自筆の書で、蕉翁来訪100年を記念して建立されたもので、雪斎公以下家臣たちが作詠した詩文がのこされています。

 大智院は、藩主松平定政公により、藩主の祈願所として建立された寺であり、明治5年長島学校が開校された、長島小学校発祥の寺です。

「蕉翁信宿處」の石碑


元祿二年秋蕉翁信宿于此而有佳句膾
炙於人口載在于家集現住覺宥懼名跡
之浬歿遂合衆力而建碑且奉乞吾
公之題字以光榮遺蹤焉

寛政改元春文學十時賜謹誌

元祿二年秋蕉翁此に信宿して佳句有り人口に膾炙す。載せて家集に在り。現住覺宥名跡の浬歿を懼れ、遂に衆と力を合せ碑を建て、且つ吾公之題字を乞ひ奉り、以て遺蹤の光榮とす。

山門を入ると、左手に芭蕉の句碑があった。


   伊勢の國長嶋
   大智院に信宿す

うきわれをさひしからせよ秋の寺

 西行の「とふ人も思ひ絶えたる山里のさびしさなくば住み憂からまし」をふまえたもの。

元禄2年(1689)9月、奥の細道の旅を終えた蕉翁は大智院に信宿して此句を書き殘した。翌3年の夏幻住庵に於て秋の寺を閑古鳥と更めた。

1971年初夏、建之。

信宿は同じ場所に二晩宿泊すること。実際は3泊している。

碑の裏に小さな芭蕉像があった。


大智院本堂


真言宗智山派 の寺である。

真蹟色紙 が所蔵されている。

 昭和2年(1927年)11月27日、 荻原井泉水 は大智院で「芭蕉の真蹟」を見ている。

さて、住職は伝来する芭蕉の真蹟というものを取出された。門前の碑銘にある「蕉翁此ニ信宿シテ佳句有リ人口ニ膾炙ス」とあるそれである。

      伊勢國長島

      大智院に信宿ス      ばせを

   うき我をさびしがらせよ秋の寺

拝見すると、まず筆蹟に就いて疑の湧くのを禁じえない、又、その句が普通に伝えるところとは違っている。

『随筆芭蕉』 (長島)

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