このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2010年

麻績宿〜善光寺街道〜

麻績は北国脇往還(善光寺街道)の宿場町。


本陣跡(中橋)


山崎斌(あきら)の生家である。

 明治45年(1912年)3月、麻績で歌会が催され、 若山牧水太田喜志子 と再会する。

牧水は山崎斌の生家臼井忠兵衛宅に泊まった。

山崎斌は草木染めの研究家として知られている。

昭和34年(1959年)、川崎市麻生区に 草木工房 を開設。

昭和47年(1972年)、81才で歿。

向かいの「花屋」に芭蕉の句碑があった。


   芭蕉 更科紀行 より

身にしみて大根からし秋の風

ひよろひよろとなほ露けしやをみなへし

 貞亨5年(1688年)の旧暦8月10日頃、芭蕉は名古屋を出発木曽路に入り、中仙道からそれて善光寺道に出て、麻績宿を通り猿ヶ馬場(馬場峠)を越え、姨捨に十五夜の名月を賞した。

昭和36年(1961年)、建立。

本陣跡(瀬戸屋)


麻績宿本陣跡

−臼井孫右衛門(瀬戸屋)家−

 麻績村が正式に認められたのは慶長18年(1613年)12月、松本藩主小笠原秀政によって、後に下問屋と称された葦澤孫左衛門が問屋職を許され、翌年に伝馬役を定められてからである。

 五街道のような正式な本陣ではなかったが北国脇往還(善光寺街道)沿いの麻績宿では臼井忠兵衛家(屋号−中橋)が代々本陣職を世襲し、当初は57軒の宿場町であったものが、幕末の嘉永年間には240軒の増加している。麻績宿は長さが東西6町35間(約710米)で、問屋は上問屋(岩渕家)が月の前半を、下問屋(葦澤家)が月の後半をそれぞれ分担した。脇本陣は置かれていなかった。

 安政7年(1860年)から幕末にかけて本陣をめぐる紛争があり、瀬戸屋も本陣職を名乗った。当時29軒の旅篭屋のなかで瀬戸家は屈指の位置にあり、客室数では第2位(6室)であった。主屋は改築されてしまったが「離れ」(御殿)と呼ぶこの建物は、明治初期以降に建てられたことが内部の構造から知られている。幕末から明治・大正の近代に至る過渡的な状態をよく残している。

麻績村教育委員会

私の旅日記2010年 〜に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください