このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2010年

長楽寺〜碑巡り〜
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姨捨公園 から長楽寺へ。

姨石と観音堂


 「 長楽寺 境内碑文集」には芭蕉の「 芭蕉翁面影塚 」を始め38基の碑が集録されている。

 『姨捨・いしぶみ考』(矢場勝幸)には長楽寺周辺のものを含め、67基の碑が詳しく説明されている。

知らない人も多いが、いくつか拾ってみた。

宗祇 発句碑


あひにあひぬをばすて山に秋の月

出典は宗祇句集『老葉』。

をばすて山の月見にまかり侍りしに、此所の八幡宮神主(の)許にて侍りし会に、

あひにあひぬをばすて山に秋の月

宗祇句集『老葉』

「此所の八幡宮」は 武水別神社

文化7年(1810年)7月、建立。

守武 の句碑


待宵や明日の夜の月は貯れず

 荒木田守武は伊勢神宮祠官・連歌師。山崎宗鑑とともに俳諧の祖とも言われている。

安政5年(1858年)、建立。

碑の裏に梅朗の句が刻まれているそうだ。

姨捨や月に見らるゝ人心   七十三翁梅朗

 梅朗は西沢庄平。東筑摩郡四賀村矢久の人。 桜井梅室 の門人。別号松風斎。

嘉永2年(1849年)4月、梅朗は 石山寺 に芭蕉の句碑を建立。

田川鳳朗 の句碑


はじめから夜毎続きて秋の風

更級庵静一の句碑


月見るや滞なく七むかし

慶応4年(1868年)秋、建立。

碑面の上部に「芭蕉」の句が刻まれている。

姨石耳那幾加走之多留気々春哉
(姨石になきかはしたるきゞすかな)

  『もとの水』『風羅袖日記』『俳諧一葉集』 、に収録されているが、 存義 句。

  『芭蕉句解参考』 には「愚考、姨捨山に姨石とて二石あり、夫を姨ひとり泣といふ自句のうら成べし。」とある。

  『芭蕉句鑑』 には「姨石と」とある。

茂木秋香 の句碑


名月やくろきは人の声ばかり

昭和10年(1935年)8月、建立。

虚子の句碑


更科や姨捨山の月ぞこれ

昭和20年(1945年)9月22日、姨捨観月句会の折に詠まれた句。

『随筆小諸雑記』の「姨捨紀行」に集録されている。

  小諸 に一年住んでをるうちに、だんだん地方に知人が出來て、更級の郡にも南星、杜子美などいふ人があつて、今年の月を姨捨に見に來ないかといふ話があつたのは八月のはじめであつた。仰山な企てにしないで、五六人のつゝましやかな會合ならばと約して、神宮司廳の暦を繰つて見ると、九月二十二日が舊暦の八月の望とあった。

(昭和20年11月『ホトトギス』)

昭和57年(1982年)10月1日、建立。

一茶の句碑はない。

 だがわたくしには、信濃俳人の代表者とも云うべき小林一茶の句碑がそこに見当たらぬのがやはり気になった。一茶は文化6年8月15日に 村松春甫 と云う俳人と共に、姨捨に月を仰ぎ、「けふといふ今日名月の御側かな」の句をのこしているからである。

『信濃路文学散歩』(野田宇太郎)

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