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私の旅日記
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2008年
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石山寺
〜芭蕉の句碑〜
滋賀県大津市の瀬田川沿いに石山寺がある。
石山寺東大門
石光山石山寺は
西国順礼
第十三番札所。
東寺
真言宗
大本山である。
明和7年(1770年)3月晦日、諸九尼は京都岡崎の湖白庵を跡にして、石山寺に詣でた。
石山寺に南華法師のいまそかりけるに、いとま申入んとてまうでけるに、都よりしたしき人のあまた送来り、水うミに影みゆるかぎりハと聞えけるを、とかくいひなぐさめて、爰より立かへる波の音もせずなりにき。
『秋風記』
本堂を見下ろす。
明和8年(1771年)9月4日、諸九尼は再び石山寺に登り、旅の無事を謝している。
七ツ下りのころ石山に着て、世尊院の方丈に、頭陀袋をほどく。誠に大とこたちの、朝夕に祈たび給へりしゆへ
(ゑ)
にや、あやしの老の身の、つゝがなく、二度まミへ
(ゑ)
参らするも、大慈大悲の御恵
ミ
なるべしと、なき
ミ
わらひ
ミ
物がたりて、夕ぐれの程に御堂に登り、所願成就の法施奉り、月見の亭に行てミれば、夕附夜の空はれて、風は律といふ調にやかよふらんと、やゝ時をうつす。
はらりはらり荻ふく音やびはのうミ
『秋風記』
世尊院は石山寺の塔頭。
辺りは色づき始めている。
芭蕉の句碑があった。
曙やまたむらさきにほとゝきす
元禄3年(1690年)4月、芭蕉は紫式部が『源氏物語』を執筆したといわれている「源氏の間」を拝観。
『芭蕉句選拾遺』
には「
あけぼのやまだ朔日にほとゝぎす
」とある。
嘉永2年(1849年)4月、建立。
梅室
筆。
瀬田尓泊りて暁石山寺尓まうてかの源氏の間をミて
願主 信州筑广郡會田郡矢久村
松風斎梅朗
右芭蕉翁真蹟画賛一軸
石山寺 尓寄附して一墳建立
于時嘉永二己酉閏四月 梅室書
『諸国翁墳記』
紫式部像があった。
享和2年(1802年)3月23日、
太田南畝
は石山寺を訪れ「源氏の間」を見ている。
左右に七軒の寺家あり。右に二王門あり。石山寺と言額あり。門を入り左右子院四軒あり。家居のさまもつきつきしく見ゆ。左のかたの奥なるは別當なるべし。知行五百七拾九石餘ときくもむべなり。右のかたにたてる石黒くさかしくみゆ。坂をのぼれば高さ丈にあまれる石つらなり峙り。本堂は南向にて本尊は觀世音とかや。紫式部源氏の間といふ有りて、カ
(※「穴」+「果」)
頭口に翠簾をたれたり。本堂に額あり。其文にいはく、
江州北郡浅井備前守息女亜相
当寺諸伽藍者
秀頼卿御母堂為二世安楽御再興也
とあり。拝殿もあり。三十八社の明神・多宝塔・叉庫
(アゼクラ)
等あり。鐘楼の鐘は人々のつく事をゆるすとみえて、かはるがはるつく音かしがまし。早鐘無用の札いでたるもおかし。
『壬戌紀行』
多宝塔
国宝である。
昭和8年(1933年)、
斎藤茂吉
は石山寺の多宝塔にに案内された。
多寶塔の鍵をあけつつ導きしわかき法師をわすれかねつも
『白桃』
心経堂
石山寺から石山寺観光駐車場へ向かう途中の右手に
芭蕉の句碑
がある。
義仲寺
へ。
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