このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2008年

石山寺〜芭蕉の句碑〜
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滋賀県大津市の瀬田川沿いに石山寺がある。


石山寺東大門


石光山石山寺は 西国順礼 第十三番札所。

東寺 真言宗 大本山である。

 明和7年(1770年)3月晦日、諸九尼は京都岡崎の湖白庵を跡にして、石山寺に詣でた。

石山寺に南華法師のいまそかりけるに、いとま申入んとてまうでけるに、都よりしたしき人のあまた送来り、水うミに影みゆるかぎりハと聞えけるを、とかくいひなぐさめて、爰より立かへる波の音もせずなりにき。


本堂を見下ろす。


 明和8年(1771年)9月4日、諸九尼は再び石山寺に登り、旅の無事を謝している。

 七ツ下りのころ石山に着て、世尊院の方丈に、頭陀袋をほどく。誠に大とこたちの、朝夕に祈たび給へりしゆへ(ゑ)にや、あやしの老の身の、つゝがなく、二度まミへ(ゑ)参らするも、大慈大悲の御恵なるべしと、なきわらひ物がたりて、夕ぐれの程に御堂に登り、所願成就の法施奉り、月見の亭に行てミれば、夕附夜の空はれて、風は律といふ調にやかよふらんと、やゝ時をうつす。

   はらりはらり荻ふく音やびはのうミ


世尊院は石山寺の塔頭。

辺りは色づき始めている。


芭蕉の句碑があった。


曙やまたむらさきにほとゝきす

 元禄3年(1690年)4月、芭蕉は紫式部が『源氏物語』を執筆したといわれている「源氏の間」を拝観。

『芭蕉句選拾遺』 には「あけぼのやまだ朔日にほとゝぎす」とある。

嘉永2年(1849年)4月、建立。 梅室 筆。

瀬田尓泊りて暁石山寺尓まうてかの源氏の間をミて


 願主 信州筑广郡會田郡矢久村  松風斎梅朗
 右芭蕉翁真蹟画賛一軸
 石山寺 尓寄附して一墳建立

 于時嘉永二己酉閏四月 梅室書


紫式部像があった。


 享和2年(1802年)3月23日、 太田南畝 は石山寺を訪れ「源氏の間」を見ている。

左右に七軒の寺家あり。右に二王門あり。石山寺と言額あり。門を入り左右子院四軒あり。家居のさまもつきつきしく見ゆ。左のかたの奥なるは別當なるべし。知行五百七拾九石餘ときくもむべなり。右のかたにたてる石黒くさかしくみゆ。坂をのぼれば高さ丈にあまれる石つらなり峙り。本堂は南向にて本尊は觀世音とかや。紫式部源氏の間といふ有りて、カ(※「穴」+「果」)頭口に翠簾をたれたり。本堂に額あり。其文にいはく、

             江州北郡浅井備前守息女亜相
   当寺諸伽藍者
             秀頼卿御母堂為二世安楽御再興也

とあり。拝殿もあり。三十八社の明神・多宝塔・叉庫(アゼクラ)等あり。鐘楼の鐘は人々のつく事をゆるすとみえて、かはるがはるつく音かしがまし。早鐘無用の札いでたるもおかし。


多宝塔


国宝である。

 昭和8年(1933年)、 斎藤茂吉 は石山寺の多宝塔にに案内された。

多寶塔の鍵をあけつつ導きしわかき法師をわすれかねつも


心経堂


石山寺から石山寺観光駐車場へ向かう途中の右手に 芭蕉の句碑 がある。

義仲寺 へ。

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