このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

一茶の句碑

琴平神社


べったりと人のなる木や宮角力

JR成田線布佐駅から栄橋を渡って利根川を越える。


利根町役場の隣に徳満寺がある。


徳満寺の手前に琴平神社という小さな神社がある。

琴平神社


   金毘羅社

地藏堂の西に在り。その間路の左右に乾隍(からほり)の迹あり。さればこの地、城の大手なるべし。境内に空居心經碑あり。又ここの地に於て毎年八月十日、祭禮相撲ありていと賑へり。

べつたりと人のなる木や宮相撲   一茶


琴平神社に小林一茶の句碑があった。


べったりと人のなる木や宮角力

 近世三俳人(芭蕉、蕪村、一茶)の一人、小林一茶はたびたび当地方を訪れました。利根町内で一茶の訪れたところをあげると、琴平神社、徳満寺、来見寺、そして鶴殺しの念仏院などがあります。それぞれのところで一茶は句をよみ、また俳文といわれる短い文章を書き残しました。

 寛政3年(1791年)3月26日江戸を発ち、出郷してから初めて柏原に帰る。柏原に帰るのに先立ち、29日馬橋から布川に向かい、馬泉亭に泊る。

   布川 馬泉亭に泊る。題をさぐる。

浦々の浪よけ椿咲にけり


 一茶が布川を訪れた最初の記録である。馬泉は葛飾派の俳人。明和期から素丸門にあって活躍し、寛政の初め布川に移る。


   下フサ
蜘の巣に一升ばかりさくらかな
   馬泉


 それらの中で利根町にもっとも親しまれているのが、琴平神社の奉納相撲をみてつくったこの句であります。

 琴平相撲は寛政7年(1795年)からはじめられました。この相撲を見ようと、たくさんの見物人むが押し寄せ、まわりの木にまで人が鈴なりになりました。そのようすを句にしたものです。

 享和3年(1803年)8月7日、小林一茶は布川を訪れ、琴平相撲を見物している。9月7日「晴 江戸ニ入」まで、1ヶ月布川に滞在。

   七日 晴 布川ニ入

   九日 晴 金比羅角抵アリ

   十日 晴 角力

けふきりの入日さしけり勝角力

正面は親の顔なり負け相撲

『享和句帖』(享和3年8月)

一茶41歳のことである。

 文化7年(1810年)10月10日、馬橋から布川に入る。金比羅講興行。布川で 芭蕉忌 を迎える。

   十 晴 布川入 金比羅講興行

   十二 曇 小雨

ばらつくや是は御好の初時雨

けふの日や鳩も珠数(数珠)かけて初時雨

念入てしぐれよ藪も翁塚

『七番日記』(文化7年10月)

 この時は田川を経て、15日に 佐原 を訪れ、 今泉恒丸 の墓参りをしている。

 文化8年(1811年)12月22日、一茶は 布川 に入り、文化9年の正月を布川で迎える。

文化9年(1812年)1月10日、金比羅講興行。

   十 陰 甲(申)刻小雨 夜雪 金比羅講興行

『七番日記』(文化9年正月)

 この句は一茶自筆の句帖『七番日記』文化14年(1817年)8月のところに出ています。その自筆の文字を拡大して刻みました。一茶の署名も同じ句帖からとってあります。

 文化9年(1812年)11月14日、一茶50歳の時、江戸を引き上げる。文化14年(1817年)8月には郷里柏原周辺にいて、布川を訪れているわけではない。

一茶自筆の文字


  昭和63年9月23日

一茶の句碑を建立する会

利根町観光協会

徳満寺 へ。

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