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俳 人

今泉恒丸

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今泉与右衛門。葛斎と号した。 加舎白雄 門下とされるが、確証はない。

 文政元年(1818年)、 亀田鵬斎 は『ありのまゝ』(李尺編)の跋文に「葛斎、 成美巣兆道彦 、当今之巨擘也。」と記している。

 宝暦元年(1751年)、奥州三春藩領常葉中町(現:福島県田村市常葉町)に生まれる。

 寛政4年(1792年)、42歳の時、江戸浅草の成美宅近くに住む。

今は二十年ばかりのむかしならむ、みちのくの恒丸老人、はやく四方の志ありて江戸にあそびし頃、予が狭室とハ浅草川たゞひとすぢへだてたる處に仮居して、朝にゆふべに膝をならべぬ折すくなく、日々に句をつくりて、推敲をとひもしとはれもせしが、

『玉笹集』(成美序)

 寛政10年(1798年)、会津、江戸、名古屋を経て大坂まで旅をする。

 寛政11年(1799年)、 『続埋木』 刊行。

 寛政11年(1799年)5月、今泉恒丸は 栗田樗堂 の二畳庵を訪れている。

何處まてかこゝろをさそふほとゝきす
 樗堂

茂みに月のかゝる嶋やま
 恒丸

 己未仲夏二畳菴興行


 寛政12年(1800年)4月、浪花で 『たますり』 刊行。

 文化3年(1806年)3月4日の江戸大火で家を失い、 佐原 に移り住んだ。恒丸55歳の時である。

四日 晴 大南吹 巳刻芝田町より火出て浅草反甫(たんぼ)迄焼る 五日巳刻ニ至ル

『文化句帖』(文化3年3月)

俗に「寅年の大火」といわれた大火事である。

同年12月12日、一茶は船で 行徳 に渡り、陸路 佐原 を訪れる。

   十二日 朝雨 佐原ニ入

『文化句帖』(文化3年12月)

 文化4年(1809年)5月27日、 鈴木道彦 の十時庵で恒丸会。

廿七日 晴 成美会止ム 於十時庵恒丸会有

此月に扇かぶつて寝たりけり

『文化句帖』(文化4年5月)

 文化6年(1809年)2月7日、布川、 田川 から佐原に入り、2泊。

   七[日] 左(佐)原ニ入 南風 夜亥刻出火

『文化六年句日記』

   二月八日 於葛斎会

正月はくやしく過ぬ春の風
   一茶

     猫鳥鳴ておぼろ始る
   恒丸

「葛斎」は恒丸の庵。

探題

死下手の此身にかゝる桜哉
   一茶

山椒はめでたき木也春の雨
   恒丸

『文化三−八年句日記写』

同年夏、 夏目成美 も恒丸を訪ねた。

文化7年(1810年)9月14日、今泉恒丸は亡くなる。享年60歳。

 門人に小見川の 兄直 、銚子の 桂丸 ・李峰、帆津倉(現・行方市三和)の俳人 洞海舎李尺 がいる。

佐原の前原共同墓地に恒丸の句碑がある。


蘆花半輪これ俳諧の一大事

佐原の 諏訪神社 にある芭蕉の句碑に恒丸の句が刻まれている。



こころほどすむものはなし荻の声   恒丸

恒丸の句

不二を出し雲より時雨初にけり


ほとゝぎす鳴夜を船の旅寐哉

朝皃のしぼみより秋のさび初る


後より雪の降れかし小風呂敷

『享和句帖』(享和3年11月)

よしきりの癖を見に來る畫書哉

   西遊のころ

茶筌賣京の御秡に老といふ


松山や風のしたより雉子の声


としよるもうれしきものよほとゝぎす


はつ秋の老母草(おもと)にかゝる手水(てうづ)かな


艸まくら覆盆子にあるじ致させう


箕むしの心ゆかしや梅の花


花芙蓉淋しいは我こゝろにて


酒のまぬ日はなけれども神無月


不二の根のあればぞ我も薬喰


花芙蓉さびしいはわが心にて


   みちのくへ行を送りて

松しまにいふて下され我老ぬと


あたらしき命となりぬ明の春


海山や目をふさいでも秋の夕


まつ風や恋を忘れし瓢汁


 同年10月15日、一茶は 布川 から田川を経て 高岡 を通り佐原を訪れ、今泉恒丸の墓参りをする。

笹鳴も手持ぶさたの垣根哉


時雨[る]や主が居たら初時雨
   もと女

『七番日記』(文化7年10月)

もと女は恒丸の妻もと。

本宿コミュニティーホール に句碑がある。



笹鳴も手持ぶさたの垣根哉

 文化8年(1811年)2月18日、一茶は布川から佐原に入り、2泊。

   [十]八 東風吹 昼ヨリ曇 佐原ニ入

『七番日記』(文化8年2月)

 同年5月、 松窓乙二 は函館から素月尼に句を贈っている。

をのゝえの軒近き七面(ななも)の山の奇景も、明暮てあやめふくけふに成ければ、素月尼に贈る。

これ提て七面見に立て粽二把


 文化11年(1814年)夏、京都に旅立ち、剃髪して素月と名乗る。

 文化13年(1817年)秋、恒丸七回忌のため佐原に帰る。

 文化15年(1818年)、 乙二 のいる函館に旅立つ。

 文政2年(1819年)4月29日、函館に到着。

文政2年(1819年)9月20日、素月は函館で客死。

しら露や存分置し夢のうち

佐原の前原共同墓地に墓がある。

真如素月尼 葛斉庵主

素月の句

雨を待鳥の羽いろや春の草


うぐひすの野うつりしてや淺香山


しら露や火を摺こぼす馬の上


松風に出て吹せばや蚤の跡


人の来て元日にする庵かな


礒の松浪こゆるかやきじの聲


人の来て元日にする庵哉


ひとあらし世は美しき花の雨


人の来て元日にする庵かな


竹の月はや鮓売の来るころぞ


雛さまも侘住居かな浪の音


のひ足らぬうちや実の春の艸


ころもかへ(え)て行は誰子そ浦の松


浪の嶋春の心の置あまる


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