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俳 人

栗田樗堂

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 伊予松山の酒造家。栗田家に入婿、7代目戸主となる。町方大年寄を勤める。 加藤暁台 に俳諧を学ぶ。初号蘭芝。二畳庵。



 天明7年(1787年)、京都・大和・尾張を巡る。 『つまじるし』

 寛政7年(1795年)1月8日、一茶は讃岐から伊予に向かい、15日、松山の栗田樗堂を訪ねた。

十五日、松山二畳庵に到る。


鶯の咽にあまりて啼日哉
   樗堂

 園一ぱいに春の地烟
   一茶

『樗堂俳諧集』

 寛政8年(1796年)、一茶は再び四国に渡り、樗堂と両吟歌仙を巻く。

   田 家

藪越や御書(フミ)の声も秋来ぬと
   一茶

牛にすゝらす白粥の露
   樗堂

『樗堂俳諧集』

 寛政12年(1800年)、樗堂は 庚申庵 に営む。



 亨和2年(1802年)8月、安芸国 御手洗島 (現:広島県呉市豊町御手洗)に「誰彼塚」を訪ねる。



海久礼亭鴨能声本のか耳白し

 文化2年(1805年)、『樗堂俳諧集』

 文化4年(1807年)頃、御手洗島 に移住。

 文化7年(1810年)5月、倉田葛三は九州行脚の帰途、御手洗の二畳庵を訪れている。

晴て行桴の鼻や皐月川
   雉啄

鳥か飛ても明る夏の夜
   樗堂

草笛のひとふしあすは曲もなし
   葛三


 文化8年(1811年)、 閑斎 は伊予の二畳庵を訪れている。

ふと浮雲に跨るおもひおこりて、夢とも現と
もおのが心己が身をわくべきかたもなく、舟
人の袂の風にさそはれて、先いよの國へわ
る。

   この叟のかくれ里を二疊菴とよび
   て、夏と冬との垣ねをわかつ。

短夜を人のさゝせぬ戸口哉
   樗堂


 文化9年(1812年)、 『萍窓集』

 文化9年(1812年)3月4日の樗堂書簡が翌10年3月1日一茶に届く。

   去三月四日出 同日来

出たければ出る世が出来て梅の花
   樗堂


 文化11年(1814年)、『万家人名録』(第五編)のあとがきを書く。

文化11年(1814年)8月21日、66歳で没。

 文化11年(1814年)11月、 『三韓人』 刊。故人樗堂の書簡を跋代わりとしてある。

 梅柳と申収候。いまだ御往生も不被成候由、夫もまためでたからむ歟。老はことの外に衰たり。活て居ると申ばかり、万事随意々々。風流も先閉口同時也。只むかしをおもふ度、人恋しくぞ。最早生前御面会もあるまじく歟。上品蓮台にてとたのしみ候なり。

   如月廿日
樗堂 老人(書判)
      一茶上人 榻下

 たづねても世の中はなし山さくら

         長ければみつがひとつをしるしぬ。

 八月廿二(一)日、叟身まかりぬと聞て、筆の落るもしらずおどろく折から、またかたのごとくの書とゞく。さながらあの世へさそはるゝやうに、そゞろにうしろさむく、

此次は我身の上か鳴烏
   一茶

文化12年(1815年)3月、 紗空楽都閑 (桜塚)建立。



木のもとにしるも膾もさくら哉
   松尾芭蕉

はつさくら華の世の中よかりけり
   栗田樗堂

松山市 の阿沼美神社 に樗堂の句碑がある。



浮雲やまた降雪の少しつゝ

樗堂の句

大かたは散そめて花のさかり哉


木を立て其後は見えす閑古鳥


つやつやと梅散夜の瓦かな



   も一日留んと

鐘の声翌はふるべき春がすみ


けさのはるどこぞに誰ぞ草まくら


立枯の栗に雪ちる山田かな


ミちのへや小萩にうつる稲の虫


霜の夜の鼠来て踏まくら哉


華青葉人の三月四月かな


折梅にお(を)るべき枝はなかりけり


猫の恋逢ふ夜がちにて哀れ也


水うつや掃や植たる竹のもと


   この叟のかくれ里を二疊菴とよび
   て、夏と冬との垣ねをわかつ。

短夜を人のさゝせぬ戸口哉


初ざくら盛は花にゆづりけり


古郷は夜の蛙となりにけり


世話聞かぬ耳とて蚤のはいり鳧


しら波の上まで露の夜明かな


いそちとりつめたき足も唯おかす


遊ふにも月日は減るど百千鳥


寝はねてもすむ身を春の朝雀


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