このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

俳 人

閑斎
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吉備中山の人。 義仲寺 の無名庵十世。別号梅関。椿杖齋。

閑斎   粟津 義仲寺


 文化元年(1804年)、主に「十九日」江戸で閑斎会が開かれていたようである。一茶もしばしば出席していた。

十二[日] 晴 閑斎

十九日 晴 閑斎会出席

『文化句帖』(文化元年8月)

 文化7年(1810年)1月、閑斎は江戸で 巣兆成美 等と交遊。

去廿八 雨 昼ヨリ晴 閑斎画会 巣兆 成美 麦宇等

『七番日記』(文化7年1月)

十三 雨 観音参詣 閑斎泊

廿六 曇 閑斎ニ入 甫時迄幽嘯を待 終ニ不来 三吟歌仙止

『七番日記』(文化7年3月)

 文化8年(1811年)、諸国を俳行脚した記念集 俳諧道中双六』 刊。

 文化10年(1813年)、『ひさごものがたり』刊。

 文化12年(1815年)10月12日、粟津義仲寺の時雨会に参列。

   一座念香

  九とせの年月を旅にへらし、けふや
  粟津翁塚にぬかつき
備后中山
菰枕ことしまことの初しくれ
   閑斎


 文化13年(1816年)、梅関と改号。

 文化14年(1817年)、東国の遊歴を終え帰国。『長櫃』上梓。

 文政3年(1820年)、閑斎に復し、義仲寺の無名庵十世となる。

 文政7年(1824年)と翌8年の2回にわたり、魚水は義仲寺を訪れ 『諸国翁墳記』 に洩れていた 藤本家の芭蕉句碑 を付け加えるよう願い出た。

藤本家の芭蕉句碑


草臥れて宿かるころやふちの花

 文政13年(1830年)、『粟津文庫』刊。

天保8年(1837年)頃、没。

天保11年(1840年)、松本の百瀬尚司は 芭蕉の句碑 を建立。閑斎書。



春雨の木下につとふ雫かな

滋賀県大津市の 芭蕉道統歴代句碑 に閑斎の句がある。



走る露あやうくとまる葉先哉

閑斎の句

行春やとしよりぶりの鳩の声


蔓草やはゝき立ても星の空


南瓜はおかしミ多き月夜哉


筑波へものぼるこゝろか蝸牛


八重かすみ焼蛤の塩からき


簔虫の巣はつみ残す茶の木哉


五月雨や鶯啼て寒くなる


ねばり気のぬけ降也春の雪


洗ひ苧のむしろに寒し椎が本


なしの花垣根に月の落んとす


   大井川渡る時

死(な)は夏三途の川も丸裸


絶て来て鶯寒し入梅のまど


めでたさの一番筆やまつの花


陸奥の雪昼日(ひねもす)毎の草まくら


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