このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

庚申庵〜栗田樗堂〜
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松山市味酒町に 庚申庵史跡庭園 (HP)があるというので、行ってみた。

庚申庵

愛媛県指定記念物(史跡)

  栗田樗堂 (1749〜1814)は、松山松前町の酒造業後藤家に生まれ、後に同業の栗田家に入夫、家業をもりたてる一方、町方大年寄としても活躍した。俳人としても、 加藤暁台 に師事し、芭蕉復興運動に尽くすなど俳壇をリードする活躍で、小林一茶をはじめ、多くの俳人が樗堂を訪ねている。

 庚申庵は、寛政12年(1800年)、樗堂が「市中の隠」を求めて建てた草庵である。この地に以前小さな祠があり、古庚申と呼ばれていたこと、また建てたのが庚申の年であったことから、庚申庵と名付けたという。樗堂は、ここでもっぱら俳諧の道に精進し、「庚申庵記」をものした。その後樗堂は安芸の国御手洗島に移り、65歳で没した。

 現在、庚申庵は公有化され、平成12年(2000年)から3ヵ年かけて復元、往時の姿を甦らせている。建物南側には風雅な庭園があり、毎年4月末に咲くフジの花は見事である。

松山市教育委員会

「庚申菴」と刻まれた石が樗堂の句碑であった。


草の戸のふるき友なり梅の花

 天明時代(1781〜1789)の俳壇に、その名を知られた俳人栗田樗堂が寛政12年(1800年)この地に営んだ草庵である。樗堂は寛延2年(1749年)に豪商豊前屋、後藤昌信の三男として生まれ、同じ酒造家の栗田家に入夫した。

 樗堂は加藤暁台の高弟で、俳友には 小林一茶 、井上士郎らがあり、一茶は樗堂を敬慕して2度訪ねて来ている。

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

藤棚の奥の庚申庵


我すむ坤(ひつじさる)のかた、市塵わづかに隔りて平蕪の地あり。味酒の郷と云。寛政庚申(かのえさる)の年、いさゝか其地を求得て、かたばかりなる六畳の草屋をつくり、陸盧が好事の茶を煮ために小庇をつけたり。此ほとり、もと青面金剛の安置ありしとて、村老今も古庚申と呼ぬ。支幹幸ひに応じければ、やがて庚申菴とぞ云習ひける。

「庚申庵記」

樗堂の肖像


風雅な庭園


 天明7年(1787年)、樗堂は京都に上り、加藤暁台に学ぶ。 『つまじるし』

 亨和2年(1802年)、安芸国御手洗島(現:広島県呉市豊町御手洗)に芭蕉塚を訪ねる。

  『諸国翁墳記』 に「誰彼塚 藝州御手洗滿舟寺内 社中建 海くれて鴨の聲ほのかに白し」とある。この「芭蕉塚」は現存するようである。

 寛政7年(1795年)1月15日、一茶は栗田樗堂を訪ねる。

 寛政8年(1796年)、一茶は再び四国に渡り、樗堂と両吟歌仙を巻く。

 文化4年(1807年)頃、御手洗島に移住。

 文化7年(1810年)5月、倉田葛三は九州行脚の帰途、御手洗の二畳庵を訪れている。

 文化11年(1814年)、『万家人名録』(第五編)のあとがきを書く。

同年8月21日、66歳で没。

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