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俳 人

鈴木道彦
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道彦の句

仙台の人。名は由之。金令舎、十時庵、秋香庵と号す。

「金令」は「鈴」を2字に分けたもの。

長翠巣兆 、保吉、 碩布 、春鴻、 葛三虎杖 とともに白雄 八弟の一人。

成美 ・巣兆とともに江戸の三大家といわれた。

 安永2年(1773年)、 加舎白雄 が奥羽を行脚した際に門人となる。

 天明8年(1788年)4月9日から1週間、加舎白雄 は 海晏寺 で芭蕉百回忌繰り上げ法要を行う。

海晏禅寺


  常世田長翠 、鈴木道彦、 宮本虎杖 など白雄門下の主だった俳人はすべて参加した。

 寛政3年(1791年)9月13日、加舎白雄没。白雄没後、鈴木道彦は江戸に出る。

 寛政6年(1794年)9月7日、鈴木道彦 は 巣兆 、宗讃を伴って江戸を立ち白子に泊まる。翌8日、 平林寺 を通って毛呂の 碩布 を訪ねた。

 水清らかに流るゝに、咲かせば山吹よ、藤も、杜若(かきつばた)には廣すぎたり。

   ひたひたと秋葉報ず平林寺

『そゞろごと』

平林寺


 寛政7年(1795年)、 『はなのつと』 (鹿古編)刊。 長翠 序。道彦跋。

 寛政9年(1797年)11月、鈴木道彦 、 建部巣兆 は本庄訪れた。

 寛政10年(1798年)10月11日、鈴木道彦は倉田葛三らと 荘厳寺 の無説上人を訪ねた。

寛政11年(1799年)の頃から一茶と交流があったようだ。

二月十四日
一尾州名古屋 すりもの入一通 道彦ヘ出ル
〃(十八日)
一すりもの入 みち彦 へ出ス 尾州ナゴヤ入


 寛政12年(1800年)10月28日、大江丸は道彦と 成美 の別荘に行く。

 二十九日はたゞのやくしのうしろなる成美 のぬしの別荘に行。石町のみちひこともに小舟にさほ(を)とらせ、随斎がいほりに向ふ。

ふたりしてひとりを訪ふや冬籠
   大江丸

 ひざくづれたるしものうすべり
   成

からくりの唯今からに引かへて
   みちひこ

 享和元年(1801年)、越後路に旅立つ。

 享和元年(1801年)秋、中村伯先と山寺連は 芭蕉の句碑 を建立。鈴木道彦書。



身に新ミて大根からし秋風

 享和3年(1803年)、 乙二 は江戸に出て越年、道彦の十時庵を六度訪ねる。

十時菴 に行事六たび、さるほどに雪としぐれと降かはりて

都鳥なるれば波の鴎かな


 文化元年(1804年)2月25日、一茶は乙二 、道彦と巣兆婦人の見舞いに千住へ行く。

   廿五日 晴 北風吹

 巣兆ノ婦人例ならぬとて、乙二、道彦とおなじく千住におもぶく。かへるさ穏(隠)坊の家をよ所に見なして、

わか草や誰身の上の夕けぶり

わか草と見るもつらしや夕けぶり

『文化句帖』(文化元年2月)

 文化2年(1805年)2月3日、一茶は道彦と 清水観音堂 へ。

清水観音堂


   三日 晴 道彦と上野へ登る 清水舞台にやすらふ

『文化句帖』(文化2年2月)

 文化2年(1805年)4月11日、道彦は幡谷の 荘厳寺 に行く。

光明山真言院荘厳寺


   十一日 晴 金令幡谷行 止錠ヲ盗マルゝ

『文化句帖』(文化2年4月)

荘厳寺住職尊俊行徳は道彦の高弟無説。

 文化2年(1805年)11月10日、小林一茶は金令 、 湖光春蟻 を訪れている。

   十日 晴 金令 湖光 深川八幡春蟻訪ふ

『文化句帖』(文化2年11月)

 文化3年(1806年)11月、柴居の十三回忌に 『頓写のあと』 上梓。十時庵道彦序。

 文化4年(1807年)5月27日、鈴木道彦の十時庵で 恒丸 会。

   廿七日 晴 成美会止ム 於十時庵恒丸会有

此月に扇かぶつて寝たりけり

『文化句帖』(文化4年5月)

 文化4年(1807年)、白雄十七回忌で葛三は鴫立庵に白雄の句碑を建立。記念集 『くさかね集』 (葛三編)。道彦跋。

 文化5年(1808年)、多賀庵玄蛙は十時庵を訪れている。

十時庵の閑炉を守る夜安岐の玄蛙はいつくしまを語り令ハ松しまをかそふ

返す千鳥雪のミなとかしらむやら
  金令
  道彦


 文化6年(1809年)、 『古今綾嚢』 (鷺白編)刊。自序。道彦跋。

 文化8年(1811年)12月10日、一茶は道彦と日暮里に入る。

   十 晴 金令ト日暮里ニ入

『七番日記』(文化8年12月)

本行寺に 一瓢 を訪れたのであろう。

 文化9年(1812年)、一瓢は秋香庵を訪れた。

 文化10年(1813年)、『蔦本集』刊、 鵬斎 序。

 文化11年(1814年)、門人は 向島百花園 に芭蕉句碑を建立。道彦筆。



こんにゃくのさしみも些(すこ)しうめの花

 文化13年(1816年)8月27日、 『あなうれし』碓嶺 編)道彦 序。 長翠 追善句集。

 文化13年(1816年)11月、 『迹祭』 刊行。

   六 晴 『迹祭』六十部信州送

『七番日記』(文化13年11月)

一茶は著名俳人に配ったが、道彦や 完来 はろくに返事をしなかったようだ。

 みち彦・完来両人は、集とゞけ申候ても、返事いたさざるや(よ)し、世間あいつらへはて(照)り申まじく候間、右御せうち可被下候。

魚淵宛て書簡(文化13年12月2日)

 文化14年(1817年)正月、金令舎で興行。

墨付た小僧の皃も松過し
 みち彦

 わさとめかして東風かへす塵
  里丸


 文化15年(1818年)、金令舎社中は栃木県足利市の 定年寺 に芭蕉の句碑を建立。



子規大竹藪をもる月夜

 同年、 『古今俳人百句集』 (甲二・米砂・呂律編)刊。金令舎道彦 序。九十九房 碓嶺 跋。

文政2年(1819年)9月6日、道彦没。享年62歳。

道彦の妻応々は道彦の死後、剃髪して応々尼と称し、「金令舎」を継ぐ。

 文政3年(1820年)9月、 小河原雨塘 が金令舎の号を継承。

 文政8年(1825年)道彦七回忌、横浜市戸塚区矢部町の 街山八幡社 に芭蕉の句碑を建立。

芭蕉の句碑


草色々おのおの華の手柄かな

芭蕉の句の左に鈴木道彦の句が刻まれている。

かはらぬは嬉しさハかり後の月

向島百花園 に道彦の句碑がある。

道彦の句碑


今日の月さても惜しまぬ光かな

文政13年(1830年)、道彦十三回忌に一桑庵野月建立。

世の中の梅の咲きけり隅田川

七十四翁一桑庵野月建之

一桑庵野月は武州入間郡厚川村の人、俗名鹿山文右衛門泰行。

句碑建立の記念集として 『石碑供養』 を刊行。

天保13年(1842年)3月27日、応々尼没。

    應々尼 を悼む

葉がくれて春も殘さず姥櫻


応々の句

梅さくらあゐさくも桃の手から哉


ゆふだちに眼もさまさずやあすならふ


さゝ小笹雪にさもあれよき隣


松島の人も出立かさくらかり


つゆのまも芥子の二葉ものこらさる


笋や月夜ねがひてぬすまれし


切几巾(いか)やいかにも菴の春のもの


あさ顔に藪の香りも尽ん日ぞ


あさら井の綱にもかけよ星の糸


足事の冬よ庵の釜たらひ


山茶花に寄た座組や豆大師


細沼やいて橋かけてかきつはた


萩さくやあるにまかせし客の膳


夏らしき夏ともなしや半ばたつ


正月になれば梅咲小いゑかな


堪忍のならぬ寒さや梅もとき


梅よりもさくらに寒しすみだ川


梨子さくや生れたる日の小豆めし


雪氷我か春丈の罪深し


梅さくや土篭(竜)の土の処々


秋風や頭の白き蚯蚓掘


大津画にありたきものや梅の花


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