このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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清水観音堂上野恩賜公園〜

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上野恩賜公園

 江戸時代の初期、この地は津軽、藤堂、堀家の屋敷であったが徳川3代将軍家光は天海僧正に命じて 寛永寺 を建てさせた。寛永2年(1625年)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応4年(1868年)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治6年1月の太政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。

 恩賜公園のいわれは、大正13年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模・景観はもとより施設など我が国有数の都市型公園として整備された。面積62万平方メートル余り。

 上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言して実現したものである。

不忍池


不忍池から弁天堂の前の石段を登る。


 この石段坂を「清水坂」という。坂の上には、東叡山寛永寺清水観音堂があり、坂の名はその堂の名称にちなむ。清水観音堂は寛永8年(1631年)に京都の 清水寺 を模し摺鉢山の上に創建され、元禄7年(1694年)に現在地へ移転した。国の重要文化財に指定されている。

 清水観音堂は東叡山 寛永寺 の開山慈眼大師天海大僧正によって創建された。

清水観音堂


清水観音堂は江戸三十三観音の6番目の札所。

天台宗 の寺である。

夜にはライトアップされる。


 享和3年(1803年)10月、 小林一茶 は清水観音堂を句に詠んでいる。

清水を江戸のはづれや冬籠

『享和句帖』(享和3年10月)

 文化2年(1805年)2月3日、小林は 鈴木道彦 と清水観音堂へ。

   三日 晴 道彦と上野へ登る 清水舞台にやすらふ

『文化句帖』(文化2年2月)

 文化5年(1808年)3月20日、一茶は独りで清水観音堂へ。

 上野なる清水の糸桜は、いつか青葉となりて、隙明き顔に打そよぐ。「散こそ花は愛(めで)たけれ」といへるもさることながら、まだしたひ来る人もおほかるべきに。「気短かなる華のちりやうかな」とつぶやきつゝ、舞台に添ふ(う)てなごりをお(を)しむ。


明治27年(1894年)7月、 正岡子規 は上野公園を散策。

木の間づたひに清水堂に上る。

涼しさや梅も櫻も法の風

「上野紀行」

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