このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

下 町
indexにもどる

寛永寺上野桜木町〜



旧町名由来案内

下町みちしるべ

上野桜木町

 上野桜木町は、上野公園北側の寛永寺寺域と上野台の東北麓(現在の根岸1丁目1番西側および2、3番の大部分)に二分されていた。前者は、上野花園町から独立した区域であり、後者は、谷中村の飛地であった。起立年代は、明治7年から同11年2月の間と推察する。

 町名のいわれは、桜の木が多くあったことに由来する。

 町内にある寛永寺は、寛永2年(1625年)徳川3代将軍家光のとき建てられた。家光は、江戸城の艮(ウシトラ)の鬼門を鎮護するため、川越喜多院の天海僧正に命じて建てさせたものである。寛永寺には、徳川家の墓所として6人の徳川将軍の霊廟がある。

 寛永2年(1625年)、3代将軍徳川家光の時に創立。当時の年号をとって寺号を「寛永寺」とし、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした。

東叡山寛永寺は 江戸三十三観音 第6番札所。

天台宗 関東総本山である。

 延宝8年5月8日(1680年)、四代将軍徳川家綱死没。諡号は厳有院。戒名は厳有院殿贈正一位大相國公。 榎本其角 は徳川家綱の大法事を東叡山で参拝。

   厳有院殿の大法事を東叡山に拝ミ奉ル

五月雨の雲も休むか法の聲


 元禄3年(1690年)4月12日、其角は東叡山で句を詠んでいる。

十二日 東叡山院

   僧正の青きひとへや若楓
   角


其角は東叡山で他に3句を詠んでいる。

   遊東叡山 三句

小坊主や松にかくれて山櫻

八ッ過の山のさくらや一沈み

人は人を戀の姿やはなに鳥


 元禄11年(1698年)、根本中堂落慶。

  大伽藍造營ましましける年の今日遠くおかみ
  侍けるに富士築波根の間に夏に山ひとつ出來
  たるかと空のにほひもちかく成へきほどなり
  けり

上野より道や付らん銀河


大島蓼太 も東叡山で句に詠んでいる。

   東叡山

雲雪や世に手をられて花切手


 明和8年(1771年)5月5日、諸九尼は東叡山に詣でている。

 東叡山にまうでぬ。御寺のけつこういふもさらなり、木立物ふり茂りたる中に、瓦葺るもの所々にきらきらしくみえつゝ、深山路に分のぼる心地す。


 享和元年(1801年)、 鶴田卓池井上士朗 に随行して江戸へ旅をする。

  東叡山

ちる花は皆人につく上野哉


 文化元年(1804年)2月26日、 小林一茶 は布川の俳友 古田月船 と東叡山に登った。

   廿六日 晴 月船と登東叡山

棒突も餅をうりけり山桜

御山はどこ上つても花の咲

『文化句帖』(文化元年2月)

「棒突」は六尺棒を突きながら社寺の境内などを警固して回る人。

 慶応4年(1868年)5月15日(陽暦7月4日)、彰義隊の戦いで根本中堂をはじめ主要な堂宇は焼失。この時、新政府軍を指揮したのは 大村益二郎 である。

根本中堂


明治12年(1879年)、川越 喜多院 の本地堂を移築。

明治27年(1894年)7月、 正岡子規 は上野公園を散策。

破風赤く風緑なり寛永寺

「上野紀行」

下 町 に戻る


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください