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私の旅日記2008年

荘厳寺〜道しるべ〜
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渋谷区本町に荘厳寺という寺がある。


渋谷区の外れで、山手通りの東は西新宿になる。

荘厳寺は新義 真言宗豊山派 の寺である。

 幡ヶ谷不動尊と呼ばれ、 成田山高幡山 とともに江戸近郷の三不動のひとつとして広く尊崇を集めたそうだ。

幡ヶ谷不動尊


幡ヶ谷不動尊といっても、最寄り駅は幡ヶ谷ではなく初台である。

道しるべ

 門内左手にある常夜燈は、現在の環状6号線と 甲州街道 の交差点付近にありましたが、道路工事のためここに移されました。

 この常夜燈は、嘉永3年(1850年)に建てられたもので、台石中段には幡ヶ谷の荘厳寺、十二社の熊野神社、大宮八幡宮、井の頭弁財天への道のりが刻まれていて、道しるべの一種であったことがわかります。また、台座に多数の人名が刻んであり、それによると、当地の人はもとより江戸市中の各地、遠くは神奈川県在住の人びとによって造立されたこともわかります。

 また、墓地への通路の左側に、俳人松尾芭蕉の

暮おそき 四谷過ぎけり 紙草履

という句を刻んだ碑があることなどから、江戸時代には市中からこのあたりまで、人の往来がかなり多かったと思われます。

東京都渋谷区教育委員会

門内に入る。


常夜燈


御府内八十八ヶ所
 弘法大師
 壹丁余

 熊野十二社大權現
 二丁余

 大宮八幡宮
 三拾丁余
神田御上水源上
 井之頭弁財天
 二里余

光明山真言院荘厳寺


御府内八十八箇所 の第11番。

墓地への通路の左側に芭蕉の句碑があった。


暮おそき四谷過けり紙草履

  『もとの水』『奥の枝折』俳諧一葉集』『芭蕉翁句解参考』 に収録されているが、 存義 句。 『風羅袖日記』『芭蕉句鑑』 は「貞享三寅(年)」の句とする。

 寛政10年(1798年)10月11日、 鈴木道彦倉田葛三 らと荘厳寺の無説上人を訪ねた。

暮遅き四谷過きけり紙草履 はせを

此二十字を無説上人のためにかいつけまいらせけるを、やかて石にゑりつけて、こゝにも翁塚ある事にはなりぬ。寛政十年十月十有一日明日こそゆゝしきゆかり日なれとて、わひつくせる友とち、よたりいつたり打つれ一夜泊りの杖をしひきつるにぞ、そこの笹生の枯花、かしこの岡の遅紅葉と尋(ね)さまよふ程に、ひよひよ鳥の啼かへるころ、漸御寺の陰廂に笠をおく。扨また上人あくまでのねちけ人にて、おかしさかきりなし。

新久麗(しぐれ)ぬを少し恨やわらしとく
   道彦

もやす尾花に頭巾めせめせ
   無説

啼鴉よめの公盒子を餌にまきて
   葛三

『芳草集』(禾木編)

荘厳寺住職尊俊行徳は道彦の高弟無説。

 文化2年(1805年)4月11日、鈴木道彦は幡谷の荘厳寺に行く。

十一日 晴 金令幡谷行 止錠ヲ盗マルゝ

『文化句帖』(文化2年4月)

無説の句

里並や杓子くれても春をいふ


枯菊になるをなふるや隣の茶


   荘厳院のしくれ会ハ

今は昔といへはめてたし十二日


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