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私の旅日記
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2005年
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応順寺
〜月船碑〜
利根町立歴史民俗資料館
から応順寺へ。
羽立山応順寺
応順寺は天正16年(1588年)に開基。
浄土真宗大谷派
のお寺である。
応順寺に
月船
碑があった。
咲梅のうしろに不二の御顔哉
布川河岸の古田月船は当地方の文化を担った者の一人である。俳人一茶を支援し、一茶の月船亭泊りは前後四十数回、二百八十余日に及んだ。また取手の歌人沢近嶺は少年時代月船に俳諧を学び、生涯父とも慕って、その最後をみとった。天保8年1月20日没。辞世に花の春八十一年の飯と汁。墓石には花守りがよその花見る月夜かなとある。
澤近嶺
は月船のことについて『春夢独談』で「
おのれ父にひとしくおもう給へらるゝ人なるに
」と書いているそうだ。
文化8年(1811年)12月22日、小林一茶は布川に入り、文化9年の正月を布川で迎える。
廿二 晴 大西吹 布川ニ入
『七番日記』(文化8年12月)
咲梅のうしろに不二の御兒哉
月船
うしろからおぼろ月夜と成にけり
『七番日記』(文化9年正月)
文化九年正月十五日、下総国相馬郡布川の郷なる月船亭に日待といふことをして、人々ぞりて夜の明るをなん待ちける。
『株番』
一茶は布川に1ヶ月間滞在し、1月23日、守谷の
西林寺
に入る。
文化13年(1816年)11月19日、一茶は
流山
から布川に入り、成美の死を知る。
[十]九 晴 布川ニ入 成美没
『七番日記』(文化13年11月)
一茶が布川にやって来るばかりでなく、月船も度々一茶のもとに訪れていたようだ。
文化元年二月二十六日
月船と登
東叡山
文化二年二月十日
月船 一白来
文化二年八月二十日
江戸ニ入 田川一白 布川月船
『文化句帖』
古田月船の墓石
花守りがよその花見る月夜かな
今では古田月船の子孫も分からないそうだ。
江戸にも其名を知られた古田月船は、一茶が布川に於ける東道の主人であつた。多分は問屋の隠居であらうと、根拠はないけれど私はさう思つて居た。其想像は当つて居たが、是も代替をして子孫はもう残つていない。
柳田國男『利根川図志校訂版』解題
月船碑の写真を撮っていたら、住職の奥さんが出て来て「お茶でもどうぞ」と言って、お話しを聞かせてくれた。
一茶が布川に度々やってきたのも分かるような気がした。
鶴殺しの松
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