このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2004年
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中山道浦和宿
〜小林一茶〜
JR京浜東北線浦和駅西口からから埼玉県庁に向かうと、浦和駅西口交差点で県道164号鴻巣桶川さいたま線と交差する。
県道164号は旧
中山道
である。
県道164号沿いに「中山道浦和宿」の碑が建っている。
中山道は江戸日本橋から
板橋
へ出て、上野
(こうずけ)
・信濃・美濃を経、近江
草津
で東海道と合流し、大津を通って京都に至る。69宿があり、「浦和宿」は江戸日本橋から板橋、
蕨
と来て、3つ目の宿。
「木曽街道六十九次 浦和宿」池田栄泉
安永10年(1781年)1月18日、平橋庵敲氷は葛飾の庵を出て埼玉の鴻巣・忍を中心に遊歴。その日は浦和宿に泊まる。
其心はへのおこかましからねは名乗問ひけるに、大沢氏以一とそ答ふ。後藤の家に扈従して彫刻を事とするか、古郷也ける上毛の厩橋に行かよひ侍るとなん。こよひハ浦和の駅に共にくさまくらして歌仙一折興し侍る
『埼玉紀行』
享和元年(1801年)2月、
井上士朗
は江戸から浦和宿を通り、信州へ旅をする。
浦和宿を出れば富士山よく見ゆる。大宮宿のこなたよりちゝぶ山見ゆる。
『鶴芝』
明治21年(1888年)、浦和宿の大火で宿の3分の2を焼き尽くした。
それ以前の建物は、きわめて稀である。
わずかではあるが、今でも古い建物が残っている。
青山茶舗
明治24年(1889年)の1月に建てられた建物だそうだ。
浦和くらしの博物館民家園に浦和宿の商家が2軒保存されている。
旧高野家住宅
建築中に安政の大地震が起こったという言い伝えがあるそうだ。
現存する中山道浦和宿の商家としては最も古いもの。
旧綿貫家住宅
浦和宿の大火の際に焼け残ったと伝えられる。
解体前の店舗
安永6年(1777年)、小林一茶は15歳の時江戸へ奉公に出る。
寛政3年(1791年)3月26日、一茶は江戸を発ち、4月11日に浦和宿の入口にある
調神社
で句を詠んでいる。4月18日、出郷してから初めて柏原に帰る。29歳の時である。
一茶は
大宮
あたりでも句を詠んでいる。
以後、何度も中山道を通って江戸と柏原の間を往復するが、当然浦和宿も通るわけである。
今は「浦和踊り」ばかりだが、昔は「浦和音頭」というのがあった。
江戸を離れて三里の宿場
松の並木に烏が鳴いた
今や自由の文化都市
昭和9年(1934年)2月11日の浦和市誕生に合わせて「浦和音頭」が市民に配られたそうだ。
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