このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2007年

千曲市戸倉郷土館〜宮本虎杖〜
indexにもどる

坂城 から国道18号で戸倉温泉に向かう。

戸倉郷土館に宮本虎杖の資料が展示されているというので、行ってみた。

戸倉郷土館は 佐良志奈神社 の裏にあった。


虎杖庵


 宮本虎杖は、埴科郡下戸倉村中町の豪農宮本佐太郎常則、妻そねの息子として、寛保元年(1741年)に生まれる。本名を道孟(みちもと)、通称を清吉、また八郎兵衛とも称した。

 明和5年、虎杖28歳の時、来信した 加舎白雄 に師事。明和8年には師の白雄に従って1年有余北陸、京阪、紀伊、伊勢と巡り薫陶を受け、さらに江戸に出て「春秋庵」で学んだ。天明4年(1784年)秋には、判者(宗匠)の許しを受け「虎杖庵」と称している。

「虎杖庵記」加舎白雄筆


信中 戸倉の駅 に菴あり。虎杖とよぶはさせるよりどころあるにしあらねど、往てはかへる一千里、杖を握てかならず鉤爪のいきほひある事を。かついふ 古慊坊 がわかゝりし時なりけり、月の 姨捨山 に道しるべせしの幸、こと艸の名をとふにまかせしちぎり浅からずも、道に主一無適の心を起して北越行李のあとを慕ひ、洛の七条の僑居につかへて菜つみ水くみしつゝ、神風や伊勢の一葉菴に筆をとつては年をかさね、ともに故園を辞して四とせあまり、渠は我をちから、我は渠をちからに、帳つらぬ夏の夜、衾なき雪の夜も、ふたり旅子ぞたのもしきとうち吟じ、三嘆しては、なを三熊野や浦のはまゆふかたしきつゝ、須磨の藻しほ火いと寒かりしも、いまはむかし、せうそこの音信たえずしも、晨明山の桜さきぬ、千曲河のアユ(※「魚」+「條」)さびたりなど聞へけるもとしどしにて、ことし卯月のはじめやうやうと杖ひきならして、たゞに昔をぞかたる。あるじやゝ老たり、我白髪鏡にてらさば三千丈の愁、魂きゆるなるべし。ひと日籬外に杖を一双してユウ(※「火」+「習」)燿を詠じ、酒くみものす。一艸を得る虎杖菴とよぶのはじめなる事を、東都春秋菴のあるじ白雄いふ


 明和8年(1771年)1月1日、白雄は姨捨山上で初日を迎える。4月、白雄は虎杖を伴い 関川の里 を越えて北陸行脚に出発。

信中虎杖菴に春をむかひ、雪のきゆるを待て皇都に杖ひくべき趣を、人々にさゝやきはべりて。

初がすみきその嶽々たのもしき


やよひ半なりけり、虎杖菴に滞留せしころ。

薄履(げた)やものゝついでの朝ざくら

   その夜雪いたく降けるを

白雪やさかりの桜夢にせし


 天明6年(1786年)、 常世田長翠 は宮本虎杖を頼って戸倉にやって来た。

   乕杖庵

深山木や春まつ雪の下かつら

『あなうれし』 (碓嶺編)

 天明8年(1788年)夏、長翠は春秋庵に帰る。

 文化2年(1805年)8月、 川村碩布 は虎杖庵を訪れた。

虎杖庵につきぬひたすら明日の月をのみたのむ

   松古しいく待宵の庵やそも

『穂屋祭紀行』

碩布の自撰句集 『布鬼圃』 に「穂家露」として収録されている。

 文化9年(1812年)夏、虎杖は鴫立庵八世庵主 倉田葛三 を呼び寄せ、虎杖庵二世を継がせた。

虎杖の妻楚明、後妻鳳秋も俳人。

寒菊を大せつ過(ぎ)て折(ら)れけり

息子八郎も「舟山」と号した俳人。

むら雨や雁の行方ハ夜明かね

 文政元年(1818年)、葛三が鴫立庵で亡くなると、舟山は虎杖庵三世を名のる。

孫清吉郎は真篶(ますず)と号した俳人であった。

真篶は虎杖庵三世を嗣ぐ。

文政6年(1823年)8月13日、虎杖は83歳で没した。

文政7年(1824年)5月、 川村碩布 は「善光寺詣」の旅に出立。

虎杖庵を訪れ、 虎杖の墓 に参る。

  坂木の宿 くねり過て漸雨紅か軒を見出しぬ、十六夜塚を拝し姨捨山を栞に虎杖庵に着、先梨翁の墓に香をひねりて

   螢火も田に呼水も手向哉

『善光寺詣』

 宮本虎杖の資料は、虎杖菴六世にあたる宮本能武氏の妻 さとさん が戸倉町(現千曲市)に寄贈されたもので、戸倉郷土館にはさとさんの茶道具も展示されている。

私の旅日記2007年 〜に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください