このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2007年

坂木宿本陣表門〜北国街道〜
indexにもどる

しなの鉄道坂城駅前 は「坂木陣屋跡」である。

坂木陣屋跡

 元和4年(1618年)4月、金井村から 杭瀬下村 までの千曲川東側14ヶ村が幕府直轄領となり、坂木五千石と称された。坂木村に陣屋が置かれ、代官による政治がここで行われた。寛永元年(1624年)からは越後松平領、天和2年(1682年)には板倉領となる。

 元禄16年(1703年)4月、板倉氏は福島へ移封となり、再び幕府直轄領となった。

 宝暦4年(1754年)には陣屋は中野へ移り、坂木五千石は中野預りとなった。同9年(1759年)までは出張陣屋として存続したが、それ以後廃されるにいたった。

坂木宿ふるさと歴史館」があるというので、行ってみた。

坂木宿本陣表門


 ここは江戸時代の初め、坂木宿本陣の宮原家が置かれたところです。

 この本陣は、寛政11年(1799年)の火災により焼失してしまいました。脇本陣の中沢家が代わって本陣となりましたが、天保4年(1833年)に宮原家が再建され、参勤交代での、加賀藩の本陣は交代で勤めることとなりました。

 この本陣の表門は、間口6間、奥行2間半で、入母屋造り、桟瓦葺きです。

 門扉以外は土壁による大壁造りで、扉には八双金物という飾り金具の痕跡があります。このことから、江戸時代の中ごろに建てられたものと考えられます。

 以後、何度か改築が繰り返されましたが、坂木宿本陣の跡として唯一残った遺構として、平成16年3月25日坂城町指定有形文化財に指定しました。

坂城町教育委員会

坂木宿ふるさと歴史館


坂木宿に 高桑蘭更 の門人児玉鉄舟がいた。

 明和8年(1771年)8月24日、諸九尼は姨捨山の麓を過ぎ坂木宿へ。

 廿四日 榊の宿を通るとて、姨捨山の麓をすぐ。夜ならましかと、しばしやすらひて、

   暮るまで田ごとの落穂ひろばや


 寛政5年(1793年)8月27日、田上菊舎は坂木宿に立ち寄る。

長々こゝろ添へにあづかりし都かたの人々にも、二十七日、善光寺にて手を別つ事とはなりぬ。

この頃やゝし置いて、矢代垣崎平九郎といへるもとに舎り、爰より文添へられ、坂木に昼宿りして、十年余りの昔、今ざと旅寝せし頃、内村なにがしの深切にあづかりしが、今又この坂木宿にて、そのゆかりある一素風女(に)まみえよろこびて

   結ぶ縁のめぐりてやさし萩の露


 文化6年(1809年)4月5日、小林一茶は江戸を立ち、8日、 追分宿 から坂木宿へ。

   八日 折々雨 坂木山根屋善蔵泊

『文化六年句日記』(4月)

一茶は坂木から 善光寺 へ。

 文化12年(1815年)9月3日、一茶は柏原から江戸に出る途中、 善光寺 から坂木宿へ。

   三 晴 坂木 白木屋嘉藤次泊

『七番日記』(文化12年9月)

一茶は坂木から 追分 へ。

 文化14年(1817年)7月1日、一茶は江戸からの帰りに 小諸 から坂木へ。

   一 晴 坂木 ワカサヤ勘左衛門

『七番日記』(文化14年7月)

一茶は坂木から 善光寺 へ。

坂城宿に遊廓があった。

   板(坂)

折芦や夕三弦も霜がれる

『七番日記』(文化14年11月)

 文政7年(1824年)5月、 川村碩布 は「善光寺詣」の旅で坂木宿を通る。

 坂木の宿くねり過て漸雨紅か軒を見出しぬ、 十六夜塚 を拝し姨捨山を栞に 虎杖庵 に着、先 梨翁の墓 に香をひねりて

   螢火も田に呼水も手向哉


雨紅は坂城の旅籠の女将藤原秀子。

坂城町の北国街道には古い町並みが残っていた。

千曲市戸倉郷土館 へ。

私の旅日記2007年 〜に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください