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私の旅日記
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2006年
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追分宿本陣門(裏門)
〜堀辰雄文学記念館〜
旧中山道の追分宿を歩く。
追分宿は
中山道
と
北国街道
が合流する宿場町として栄えた。
追分という所は諸国にあるが、此処にいう信濃浅間山の南麓に当る追分の宿はその昔江戸を発した中仙道と北国街道とがひとしく
碓氷
を越えてやがて前者は左に曲って岩村田から塩尻木曽の方へ向い後者は右に山に沿うて小諸上田を過ぎ越後境の方へ向う恰度その分岐点になって居る。西国北国の大名たちの参覲交替の要路に当り、ことには
碓氷の関所
に近かったため頗る殷賑を極めていたそうである。
若山牧水「古駅」
堀辰雄文学記念館の前に追分宿本陣門(裏門)があった。
追分宿本陣門(裏門)
追分宿本陣門(裏門)
本陣
追分宿の本陣は歴代土屋市左衛門を世襲した。追分が宿場の機能を持つのは慶長7年(1602年)中山道の伝馬制度を徳川家が整備した以後である。本陣文書に「定路次駄賃之覚」(慶長7年6月10日)の記録があり、本陣が問屋を兼ね、宿継
(しゅくつぎ)
、伝馬人足の継立ても生業とした。本陣の建坪は238坪あり、中山道の宿場中、塩尻宿・
上尾宿
に次ぐ大きな宿泊設備を整えていた本陣である。
「宿継」は人や荷物などを宿場から宿場へ人馬をかえながら次々に送りつぐこと。宿
(しゅく)
送り。伝送。
延享2年(1745年)4月6日、
横井也有
は尾張公のお供をして江戸から中山道を下る。9日、碓氷峠を越え、追分に泊まる。
追分にとまる。
宿の軒端に浅間山ま近くミえて、けふ
ハ
晴たる空に、ことに煙のまがふ方なく立登るさまめづらし。此あたり
ハ
いまだ蚊も出ねば、
蚊にはまだたかぬ煙を浅間山
『岐岨路紀行』
寛政4年(1792年)10月5日、栗庵似鳩は信濃に旅立つ。14日、追分に着く。
追分の駅に至る、我国境町艸鼓といふ人、此駅に翁塚立たりと申けれは、なつかしくて心掛侍るに、終に見はつして駅をはなれたりけれ
浅間根の石はいつこに白雪そ
似鳩
凩は雪ハ飛さし艸かくれ
ゝ
『信濃紀行』
寛政5年(1793年)、
浅間神社
に芭蕉の句碑を建立。
享和2年(1802年)4月3日、太田南畝は追分宿に入る。
追分の駅にいれば中山道追分宿、自是東榊原小兵衛支配所といへる榜示あり。左に北国善光寺道あり。これによりて追分とはいふとぞ。
『壬戌紀行』
中山道追分宿
旅籠
油屋
明治23年(1890年)8月17日、
森鴎外
は
山田温泉
に向かう途中で油屋に立ち寄った。
軽井澤停車場の前にて馬車はつ。恰も鈴鐸
(れいたく)
鳴るをりなりしが、餘りの苦しさに直には乘り遷らず。油屋といふ家に入りて憩ふ。信州の鯉はじめて膳に上る、果して何の祥にや。
「みちの記」
8月26日、鴎外は山田温泉の帰りに油屋に泊まっている。
豊野より汽車に乗りて、經井澤にゆく。途次線路の壊
(やぶ)
れたるところ多し、又假に繕いたるのみなれば、そこに來るごとに車のあゆみを緩くす。近き流を見るに、濁浪岸を打ちて、堤を破りたるところ少からず。されど稲は皆恙なし。夜經井澤の油屋にやどる。
「みちの記」
明治26年(1893年)に信越線が全線開通すると、追分宿は宿場としての機能を失う。明治の末、追分宿本陣門は御代田町の内堀家表門として移築される。平成17年(2005年)、内堀家より軽井沢町へ移築された。
大正12年(1923年)、
北原白秋
は
別所温泉
から追分沓掛、そして星野温泉を経て
碓氷
を越えている。
信濃旅情
大正12年4月、妻子を伴ひ、信濃小県郡の大屋に義弟山本鼎の経営に成る農民美術研究所の開所式に臨む。旁々
(かたがた)
七久里の別所、或は追分 沓掛等に淹留
(えんりう)
、碓氷 を越えて下る。
『海阪
(うなざか)
』
油屋
旅館
油屋旅館は追分宿の脇本陣で、堀辰雄や立原道造など多くの文学者ゆかりの宿でもある。
昭和11年(1936年)5月11日、
種田山頭火
は
岩村田
から軽井沢に出かけ、追分宿のことを書いている。
五月十一日 晴。
朝の散歩。
軽井沢方面へ行
(ママ)
かける。──
浅間をまえに落葉松林に寝ころんで高い空を観ててると、しみじみ旅、春、人の心、俳句、友の情、……を感じる、木の芽、もろもろの花、水音、小鳥の歌……何もかもみんなありがたい。
信濃追分、いかにも廃駅らしい。(北国街道と中仙道との別れ道)。
『旅日記』
山頭火は浅間神社を訪れ、芭蕉の句碑を見ている。
「私の旅日記」
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