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俳 人
桜井梅室
梅室の句
加賀金沢の人。本名は能充。初号は雪雄。素芯、素信。後に梅室と改める。加賀藩の研刀御用係。
高桑蘭更
の門弟。
梅室
同[京]四条通烏丸東え入
梅室素芯
『諸国人名録』
田川鳳郎
、成田蒼キュウとともに「天保の三大家」の一人。
※キュウは虫+おつにょう
文化4年(1807年)、39歳の時に上洛。二条家から花之下宗匠の号を受ける。
文化14年(1817年)5月、
芭蕉の句碑
を建立。梅室書。
うき吾を寂しからせよ閑古鳥
文政3年(1820年)頃、北上市立花の軽石錦苔は
芭蕉の句碑
を建立。
梅か香にのつと日の出る山路かな
梅室 が軽石錦苔を訪ねた折に揮毫した文字であるとの言い伝えがあるそうだ。
文政5年(1822年)から天保5年(1834年)まで江戸に居住。
文政6年(1823年)9月13日、
海晏寺
で白雄三十三回忌法要。
當日追福
月紅葉さなからけふの手向哉
雪雄
文政7年(1824年)、
『春秋稿』(第八編)
。桜井梅室序。
文政13年(1830年)、道彦十三回忌で句碑建立の記念集
『石碑供養』
(一桑庵野月)。梅室素心序。
文政13年(1830年)8月、俳人一種は
川崎宿
に芭蕉句碑を建立。梅室筆。
麦の穂をたよりにつかむ別れかな
天保2年(1831年)10月、渡辺崋山は深谷市高島の伊丹新左衛門を訪れた。伊丹新左衛門は蘭学医。号は水郷。弟の唯右衛門は桜井梅室門の俳人で、号は溪齋。
主人も又西医の法をこのミ、人を療す。弟ハはいかいにこゝろをゆだね、梅室が門人なり。梅室も此会に出んとて此家に滞留せしが、会のびしとてひと日ふた日さきに帰りたりとぞ。
「毛武游記」
天保3年(1832年)、
『北枝發句集』
(北海編)。梅室 素芯序。
天保10年(1839年)、
『袖塚集』
(桜井梅室序、大屋志由跋)。梅室の序文は春岱による代筆。
天保11年(1840年)、桜井定爾は富山市の
水橋神社
に芭蕉句碑を建立。梅室筆。
あかあかと陽は難面くも秋の風
天保13年(1842年)、日田の
慈眼山
に芭蕉句碑を建立。梅室筆。
木のも登に汁母膾も佐久良可那
天保14年(1843年)、
『鄙さへつり』
(茶山編)。梅室素信序。
天保14年(1843年)、芭蕉百五十回忌に比良城林曹社中は
太融寺
に芭蕉句碑を建立。梅室筆。
しら菊の目に立て見る塵もなし
天保14年(1843年)閏9月、大津市の
幻住庵
跡に芭蕉句碑を建立。梅室筆。
先たのむ椎の樹もあり夏木立
天保15年(1844年)、
芭蕉句碑
を建立。梅室書。この句碑は現在行方不明。
福島県南会津町の
稲富歯科医院
に芭蕉の句碑がある。
八九間空て雨降る柳かな
梅室の書である。
弘化2年(1845年)、別府市の
西法寺
に「古池塚」建立。梅室書。
ふ留池やかハ津飛こ無水の於と
弘化3年(1846年)、金沢市の
兼六園
に芭蕉句碑を建立、梅室筆。
あかあかと日は難面も秋の風
弘化4年(1847年)春、松本市の
城山
に芭蕉句碑を建立、梅室筆。
花さかり山は日ころの朝ほらけ
嘉永2年(1849年)4月、大津市の
石山寺
に芭蕉句碑を建立。梅室 筆。
曙やまたむらさきにほとゝきす
嘉永2年(1849年)9月、長越村(現在の四賀地区中川地区)の雪松翁一翠は
芭蕉句碑
を建立。梅室書。
身丹志み亭大根からし秋乃風
嘉永3年(1850年)6月、高宮宿
山王宮
に芭蕉の句碑 を建立、梅室筆。
をりをりに伊吹を見てや冬篭
年代は不明だが、埼玉県の
文殊寺
で「永代奉額発句合」の評者であったようだ。
嘉永5年(1852年)10月1日、84歳で没。
門人に深谷市江原市川市月、高島の伊丹溪斎がいた。
明治17年(1884年)、市川市月は深谷市の
摩利支天堂
に芭蕉句碑を建立。桜井梅室筆。
深谷市の
地蔵堂
にある芭蕉句碑も梅室筆。
埼玉県熊谷市の
聖天山歓喜院
にある句碑に梅室の句が刻まれている。
聲ほとに威儀もつくらぬ雉子かな
慶応4年(1868年)春、有磯庵三世五渡建立。
金沢の
宝泉寺
に梅室の句碑が2つある。
ひと雫けふの命ぞ菊の露
屋の棟にそふて殖けり梅柳
長浜市の
良疇寺
に梅室の句碑がある。
水鳥も船も塵なり鳰のうみ
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