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私の旅日記
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2011年
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太融寺
〜芭蕉の句碑〜
大阪市北区太融寺町に
太融寺
(HP)という寺がある。
弘仁12年(821年)、弘法大師が嵯峨天皇の勅願により創建。
嵯峨天皇の皇子河原左大臣源融公が七堂伽藍を建立、浪華の名刹として賑わったそうだ。
高野山真言宗
準別格本山である。
佳木山宝樹院太融寺
本尊は千手観世音菩薩。
昭和35年(1960年)10月23日、再建。
文化元年(1804年)8月18日、
太田南畝
は太融寺の傍らを通り、小倉に赴く。
八月十八日の朝、浪花の道修町三町目のやどり町會所を出て、北野におもむく。雨ふること志きりなり。大融寺のかたはらより田圃をゆく。
『革令紀行』
本堂の左手に
芭蕉の句碑
があった。
しら菊の目に立て見る塵もなし
出典は
『菊の塵』
(園女編)。
元禄7年(1694年)9月27日、大阪の女流門弟
斯波園女
の招きをうけ、園女亭で歌仙を巻いた時の句で、園女を白菊に託している。
天保14年(1843年)、芭蕉百五十回忌に比良城林曹社中建立。
梅室
書。
『諸国翁墳記』
に「
白菊塚 大坂北野太融寺境内
ニ
アリ 比良城社中建之
」とある。
山口誓子
は太融寺に芭蕉の句碑を訪ねた。
大阪駅から東へ行くとき、太融寺の北の大通はいつも通る。しかしこの寺に来たのははじめてである。芭蕉の句碑の句碑を見に来たのだ。
「大悲殿」という額の懸っている本堂の向って右に棕梠の木が立っていて、そのうしろに大きな句碑が立っている。
自然石に
しら菊の目に立てて見る塵もなし
「しら菊」の右に「目に立てて」、左に「見る」と書いて、字配りに心を使ってある。
芭蕉は大阪に来ていて、
清水寺
へ吟行したその翌くる日、園女の家の句会で
しら菊の目に立て見る塵もなし
という句を作った。
(中略)
句碑の建立は天保十四年。
園女の家はいずこにあったか、わからない。芭蕉のこの句碑は大阪の市内、どこにあっても構わないのである。
『句碑をたずねて』
(浪華・兵庫)
境内の片隅に「史跡淀殿の墓」があった。
淀の方(永禄10年・1567〜元和元年・1615)
豊臣秀吉の側室。浅井長政の長女。母は織田信長の妹お市の方。浅井氏の滅後、秀吉に養われ、天正17年淀城に入る。淀殿、淀の方と呼ばれた。淀君は後の俗称。秀頼を生み、秀吉没後は
大坂城
に拠り豊臣方の中心人物となる。大坂夏の陣に敗戦、秀頼と共に自刃した。
法名を大淀院英岩と寺伝にいう。明治10年城東鵙野より当寺に改葬された。
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