このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2011年
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大阪城公園
〜豊国神社〜
大阪に来たのだから
大阪城
(HP)にやってきた。
南外堀
一番櫓が見える。
大阪城二の丸の南に位置する堀で、西が大手口、東が玉造口である。石垣の総延長は約2キロメートル、堀の最大幅は約75メートルあり、寛永5年(1628年)、徳川幕府による大坂城再築第3期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。幕府の命令によって動員された大名は肥前佐賀藩鍋島家・加賀金沢藩前田家・因幡鳥取藩池田家・筑前福岡藩黑田家など57家。内側の石垣上には東から一番櫓から七番櫓まで七棟の隅櫓が建造された。櫓は明治維新の大火により四番・五番・七番を失い、さらに第二次大戦の空襲により二番・三番を失って、現在は一番櫓と六番櫓だけが残る。
重要文化財 千貫櫓
大阪城の大手口を守る重要な隅櫓である。西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃することができた。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620年)で、戦後の解体修理工事の際、墨書で「元和六年九月十三日御柱立つ」と上棟式の日を記した部材が見つかった。二の丸北西に現存する乾櫓と同様に大阪城最古の建造物で、いずれも工事責任者は、茶人としても有名な小堀遠州である。具体的な場所や規模は不明ながら、前身となる豊臣秀吉築城の大坂城にも千貫櫓はあり、さらにそれよりも前、織田信長が大坂を領していたころからも千貫櫓はあった。名称の由来に関しては、織田信長がこの地にあった大坂(石山)本願寺を攻めた際、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士たちに間で噂されたという逸話が残っている。面積は1階が約217.26平方メートル、2階が約162.95平方メートル、高さは約13.5メートルである。
西の丸庭園
少し紅葉していた。
千貫櫓が見える。
大阪城公園に豊国神社がある。
主祭神は
豊臣秀吉
公、豊臣秀頼公、豊臣秀長卿。
豊国神社に豊臣秀吉の像があった。
平成19年(2007年)4月17日、復元。
中村晋也氏(平成19年文化勲章受賞)作。
だんじりが行く。
旧大阪市立博物館
大阪城公園内に残る戦争の傷あと
先の戦争において我が国は、アジア・太平洋地域の人々に対し大きな災禍と苦痛をもたらしたことを忘れてはなりません。大阪においても8次にわたる大空襲を含む50回を超える空襲を受け、まちは一面の廃墟となりました。
ここ、大阪城公園も幾多の空襲により、1トン爆弾による大阪城天守閣の石垣のずれ(天守閣東北隅)や機銃掃射による石垣の弾痕のあと(天守閣の北・山里曲輪付近の石垣)をはじめ、空襲によると思われる石垣のずれなど数多くの戦争の傷あとを残しています。
当時、公園内には軍事施設が多数あり、その中でも、第四師団司令部として使われた庁舎(現大阪市立博物館)は、軍事施設として大阪市内で現存している最も規模の大きな建物です。
また、公園東側一帯に広がっていた大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)は、面積1.18平方キロの我が国最大規模の兵器工場であり、戦争末期には大阪本廠を含めた全工場で一般工員のほかに動員学徒・女子挺身隊・一般徴用工員など64,000人が働いていました。その中には、当時の植民地支配の下で強制連行などにより集められた1,300人以上と言われる朝鮮青年も含まれていました。
大阪陸軍造兵廠は、1945年(昭和20年)8月14日の激烈な爆撃により壊滅し、今では科学分析場として利用された施設(元自衛隊大阪地方連絡部)など一部を残すのみとなっており、本館があった場所には多目的利用ができるホールとして「大阪城ホール」が建ち、診療所があった場所には、大阪府・大阪市が共同で世界の平和と繁栄に積極的に貢献する施設として設立した「大阪国際平和センター(ピースおおさか)」があります。
戦後50周年にあたり、戦争の悲惨さを語り継ぎ、国籍・民族・文化等の違いを超えた相互理解と友好を深め、世界平和を心から願う気持ちを込め、ここに銘板を設置します。
1996年(平成8年)3月
大阪府/大阪市
登録有形文化財
大阪城天守閣
現在の天守閣は昭和6年(1931年)、大阪市民多数の寄付金を元手とし、「大坂夏の陣図屏風」に描かれた豊臣時代の天守を参考に建設された。鉄骨鉄筋コンクリート造りで、本丸から最上層の鯱までの高さは約54.8メートル。古典建築を近代的な技術によって再現した、わが国の復興天守第1号である。初代の天守は、豊臣秀吉が大坂築城を開始して3年目となる天正13年(1585年)に完成したが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で城もろとも消失。二代目の天守は徳川幕府による再築工事の最中、寛永3年(1626年)に現在の場所に築かれたが、寛文5年(1665年)に落雷で消失した。以来大坂城は天守のない城郭として幕末に至る。三代目となる現在の天守は、復興時から博物館施設として利用され、第2次大戦の空襲でも消失をまぬがれた。平成9年(1997年)には復興以降初めての改修工事が完了し、同年、歴史的景観に寄与する近代建築物として国の登録有形文化財 となった。なお戦後の学術調査によって、豊臣時代の天守は現在地よりも東にあったことが判明しており、高さは約40メートル。配水池の地下付近から天守台石垣の一部が発見されている。
姫路城、
熊本城
と共に日本三名城の一つに数えられているそうだ。
もちろん
日本100名城
の一つである。
昭和8年(1933年)4月9日、
斎藤茂吉
は大阪城を訪れている。
あづさゆみ春の一日はすがしかり大阪の城に青むもろ草
『白桃』
昭和10年(1935年)4月、
石田波郷
は
水原秋桜子
と京阪に遊んだ。
大阪城ベツトの足にある春暁
昭和十年四月、水原秋桜子先生と京阪
に遊んだ。大阪馬酔木大会が当面の用
であつたが、この時山口誓子馬酔木加
盟が決定し、氏の「射手の挨拶」を持
帰つた。同ビルホテル朝の触目。
『波郷句自解』
昭和14年(1939年)5月10日、
種田山頭火
は名古屋から大阪へ。
・雨がふる大阪城の若葉かな
『旅日記』 昭和十四年
昭和41年(1966年)11月20日、
水原秋桜子
は大阪城を訪れている。
大阪城天守閣にて 二句
霜晴れて立つや金瓢の馬印
屏風にも落城の天守聳えたる
『殉教』
大阪城天守閣復興80周年記念
扇町総合高校のブラスバンド
「私の旅日記」
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