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俳 人

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丈芝坊白居

白居の句

 仙台国分町の版木屋主人で、本名は山田屋庄兵衛。 加藤暁台 に学ぶ。別号瓠形庵。

 『奥の細道』にみえる「画工加右衛門」(北野加之)の子という説もあるが、否定説もある。

 諸国獅子門の俳人名録 『俳人名録』 に「丈芝 国分町十九軒山田や留兵衛」とある。

 可都里 『名録帖』 に「白居国分町山田屋庄兵衛 丈玄坊」とある。

 寛保元年(1741年)、 渡辺雲裡坊 は仙台に住む。山本白英の尽力で冬至庵を結ぶ。

 延享4年(1747年)、鴻巣の柳几、名古屋の白尼は仙台を訪れる。

濁をも葛にかくすやおくの水
丈芝

 木陰に尋あたる日盛
白尼


 延享4年(1747年)10月12日、冬至菴連は芭蕉の句碑を建立。

芭蕉と曽良の句碑


朝よさを誰まつしまぞ片心
   芭蕉

松島や鶴に身をかれほとゝぎす
   曽良

左が芭蕉の句碑。

冬至菴連の中に「山田丈芝」の名が見える。

 明和7年(1770年)、加藤暁台は『奥の細道』の跡を辿る。仙台を訪れ、冬至庵の丈芝と出会う。

月遠く日を忘れ、漸く仙府に入て草鞋をとけば、やがて人の住ず有ける閑居をしつらひ迎えられて、はじめて物の醒めたる心地こそせらるれ。誠や旅に酔ふといへる諺もおもひしられて連衆の信こゝに顕はる。一日郊外へいざなはれけるに、田野千里一眺につくし、すこぶる豊饒甘泉の地なり、

這わたる雲も有べき青田かな
暁台

 人影も遠里の日ざかり
丈芝


 安永2年(1773年)春、丈芝は名古屋へ赴き、暁台に俳諧を学ぶ。

 安永2年(1773年)、 加舎白雄 は奥羽行脚の途上、丈芝を訪ねたが留守、弟のもてなしを受けている。

丈芝坊をとふにあるじはさきごろあが庵をとひて都をさして出しが石山の月に嘯ていまだかへらずとよ。家弟まめやかにもてなす。ともに千里の旅行ものなつかしくて

月の旅くもらで世をや西ひがし

『白雄贈答』

 安永3年(1774年)4月、暁台は丈芝 を伴って上京。7日、 夜半亭 興行。10日、暁台・士朗は丈芝と共に東山吟行。

   夏四月七日、於夜半亭興行
   長安萬戸子規一聲

ほとゝきす南さかりに鄙くもり
   曉臺

垣のあなたのみしか夜の河
   蕪村

草高きあづち平いらにならさせて
   丈芝
   (※「土」+「朶」)
人の履たる足駄かるなり
   几董

『宿の日記』(初稿)

 安永3年(1774年)6月、仙台に帰る。帰郷に際し、円珠庵羅城のもとで剃髪。丈芝坊白居と改めた。

   丈芝坊がみちのくへ帰るを送る

二とせや身に添ふ蠅も打て去


 安永3年(1774年)6月19日、丈芝坊は千代倉家を訪れて2泊。21日、江戸に下る。

六月十九日 晴天八つ過ニ白雨暫スル雷ハ不鳴 みちのく俳人京都より戻り丈芝坊、今夕東店泊り。私宅へ見え翁手跡いろいろみせ申候。

   みちのく丈芝坊に逢ふて

松島の眼にハおよバぬ青田かな
   如羽

 鳴尾の風にかハくうすもの
   丈芝

六月廿一日 終日小雨ふる 蝶羅方ニ逗留被致候俳人野月子、丈芝坊両人細根へ廻り、夫より有松へ被出、関東へ下ル。

   野月子の東行に送る

並松に涼風入よ旅ごろも
   如羽

 扇より外敷ものもなし
   野月

『千代倉家日記抄』(学海日記)

 安永6年(1777年)8月7日、松村篁雨は丈芝坊白居を訪ねている。

松しまや肌寒き迄立ちつくし

 月に情あり星に寂あり
   白居

あらたまる銚子ハ古酒に出かわりて
   嵐二


 寛政3年(1791年)5月23日、 鶴田卓池 は仙台に着き、丈芝坊白居を訪れる。

 仙台に入て丈芝の閑居を訪ふ。

      探題

   三日月に燻しかけたる蚊やりかな


寛政4年(1792年)1月21日、暁台没。

追悼之誹諧   奥州仙台社中
 丈芝坊
更衣かくてもはてぬなみた哉
   白居
こゝろもしらてわくらはの散
   万寸
岩はしる流に履やぬらすらむ
    雄淵
あちらむかへの夕けふりたつ
   北鳳

『落梅花』(臥央編)

 寛政5年(1793年)4月、芭蕉の百年忌に丈芝坊門人十符庵連中は芭蕉の句碑を建立。



やすやすと出でていざよふ月の雲

碑の裏に白居の句が刻まれている。

ながき代の蕣(あさがお)乃実のこぼ礼け里

寛政12年(1800年)10月9日、77歳で没。

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