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加藤暁台

二編しをり萩』(暁台編)


 明和7年(1770年)3月16日、加藤暁台 は名古屋を立ち『奥の細道』の跡を辿る。『送別しをり萩』。その続編である。

明和7年(1770年)、三陌岡城下竹也序。暁台の代作ともいう。

 「高舘覧古」までの収録であるが、「象潟の合歓に下臥して、猶帰郷は越後より」とある。

はじめは細道の一筋にとのみ思ひ立侍れど、そゞろに越路のなつかしければ、こゝろは有磯に早稲の香を分て、越の長浜なからんも、秋は帰る山にかりの一夜の袖をかたしき、月の玉江の穂にまねけ、はや今宵此心さだまりたりと聞え給ふ。

古翁の杖のむかしをしたふて、尾の暁台子が奥羽行脚は、東行風流のはじめなるべし。

千住からもふ細道ぞかんこ鳥
   太無坊
秋瓜

 風ちからなふ椎の花散る
暁台

奥羽を経て北国にいたる暁台子、旧交わすれず予が草扉を訪れければ、渋茶一碗に名残をおしみて、

卯の花のあけぼのもさぞ雪所
   世味庵
竹外

 あの山見さいほとゝぎす空
暁台

蓬莱の暁台風子しばらく武江に杖をとゞめ、まつ島の松に吹かれ、象潟の合歓に下臥して、猶帰郷は越後よりと聞ふるものから、

帰る山かゝえて出たり夏衣
   雪中庵
蓼太

 茨のはなに倒れ臥とも
暁台

遠遊を送らんと風子誰かれ、こよひ武江のやどりに離盃をあげて、

あぢさゐの翌を定むる夜となりぬ
暁台

武蔵鴻巣

尾城の暮雨主叟再び東下りして奥羽の志あるよし、かねて告こされけるまゝに、やつがれが江都の中やどりにむかえしばらく旅労をなぐさめ、武城の風雅に遊びて漸く卯月の末待うけたりし布袋庵に至り、七とせの再会を語て投轄の情をむすぶ、

巣をかしたあるじは老てほとゝぎす
   布袋庵
柳几

 残せし花もまことより
暁台

奥の風流おもひやりつゝ数十歩見送り出て

諷はせる発句のこせや田うゑ時
柳几

下野国 日光

神祖奉納

ふむも恐れ闇に闇なき木々の下
暁台

   黒かみ山

わけみれば桜に寒し夏の雲

   雨中華厳瀧

雨日出て雲に末なし瀧千丈

    なす野 にて

野を横に竪に蕨の広葉かな

陸奥 しら川
信夫郡福島

そし頃おもひかけし関の古道今将にこゆべしとは見ぬ世の共にさし向へるこゝちせられて何とはなくちからあり。故人衣を潔く冠を正すときく。一嚢を腋(ワキ)にし荊蕀をまとひて枕をさだむ、孤貧の行脚たゞ扇一本威議(ママ)をとゝのへ飄々としていたる、

白川を前に扇の切目(セメ)きらむ
暁台

 香にひるがへす袖に橘
呑冥

文知摺
伊達郡桑折

しのぶ文知摺は径半里ほど横切てあぶくま川を渡る。
   群鮎や人影くるゝ水の隈
石のおもて今土中にうつ伏す。あだに田夫のなせるなりとぞ。

文知摺やうらに心のなつ衣
暁台

 草蒸(ムセ)さます露の山陰
回車

伊達城戸
福島

山を負ひ澗を抱て一騎万夫に敵すといへる地勢、伏虎のごとし。煙雨わずかに夕陽をひらけば、馬をとゞめて頭をめぐらす。

さみだれの山兀として伊達の木戸
暁台

 弓手につゞくこへ田長島
菊明

武隈松
名取郡岩沼

此松に古きことくさにも云ひつたへて常にもおもひもふけしに、たかはね蒼髯二幹に立わかれて、角もじやいかで一木とはいふべくもあらず

松かげや左右にわかれて下涼み
暁台

 扇にのせてすり流す墨
休粋

道祖神
増田

この神になし来れるわざとて色なる枕をくゝりあはせ、ところせきまで懸拝るは女心の身に添ふ縁にしを置るやとて、蚊虱に身をほふる計藪の漂泊なほ見放ちたまはさるちかひの申せば、

夏草を結ひて懸ん旅まくら
暁台

 榊にちらすはなの笠島
林石

実方墳


筆捨塚、馬が墓、筐の薄は名にこそおへれ。あやしき農家の背を廻り、竹の茂み百歩余り葎かいなぐつて、藤中将の百墳を拝す。花と咲て一時をくねり、蝶と化して園にかへるも、その人其期の仇によれりとや。此公うつゝの境までも在し、雲井の上を恋つゝ世をなつかしうみはて給へば、切ッに其仇のなからましかば。噫々。

塚こゝにあるなしの日を君や嘸
暁台

 いくよふり行竹の五月雨
栄山

仙台冬至庵社中

月遠く日を忘れ、漸く仙府に入て草鞋をとけば、やがて人の住ず有ける閑居をしつらひ迎えられて、はじめて物の醒めたる心地こそせらるれ。誠や旅に酔ふといへる諺もおもひしられて連衆の信こゝに顕はる。一日郊外へいざなはれけるに、田野千里一眺につくし、すこぶる豊饒甘泉の地なり。

這わたる雲も有べき青田かな
暁台

 人影も遠里の日ざかり
丈芝

つゝじが岡
同連

いつの頃にや、岡はさくらにうつしかへられて、一城の貴賤歌舞遊歴の地となれりけり。ひと日若き人々にぐせられまかりけるに、花はみな散過ぎて青葉茂みかさなり、詠めいと哀ふかし。後の今を見る人、今のむかしをおもふ類ひなるべし。

風かほる岡やむなしき枝となり
暁台

 夏来て夏をいそぐ蜩
金馬

壺碑
嘉定庵

銘曰、去蝦夷国界ヲ一百廿里。今の界ヲ以て斗るに一千余里也。日本紀景行帝の朝に日高見国の蝦夷征伐を奏す。日高見は今同国桃生郡にして太田の庄に日高見明神鎮座ます。昔時蝦夷に属すとの由。一百廿里これ也。伏波銅標遠きにあらず。君が代や西戎奴と呼び、北狄貢す。吾輩泰平を諷て風雅に腹ふくるゝまゝ見ぬ隈々に杖をならし、朝雲暮霞の跡なきかたにもまよひ出でつゝ、爰に至てつらつら碑文に国界をおもへば、そゞろに故園の情を感じ、涙たゞ胸を責めて眼煮るがごとし。気変の哀楽羈旅のうへ、しか有るべしや。

碑や故郷を去つて夏百日
暁台

 水かれ岡の草茂りたり
橙司

末の松山
嘉定庵

祖翁いへり、すゑの松山は寺となりて、松のひまひま墓を築く。羽をかはし枝をならぶる契の末も終にはかくのごとくかなしと。

恋のみや末は無常のちり松葉
暁台

 露かと袖をしぼりすゞ風
陶家

十符菅
直庵

長柄の橋屑、井手の蛙懐にせし例しも有ながら夫を摘。是をとりてつとに得させよといへる老法師が事おもひ出て、一もと刈とり笠にはさむ。七布の誠もあるものを。

笠にかざす菅一もとのやどり哉
暁台

 蝉にしぐるゝ岡の松かね
布朴

玉河
止鳥庵

苦熱に面を焦し、野田の里に喘ぎ着く。田草とる男に玉川をと問ひもとむるに、たゞ此あたりをぞ玉川と申侍るとぞ。川は跡なくなりて阿部の松橋又とたえたり。

六月や心にかよふ川ちどり
暁台

 汐風越してかほる夕され
知昂

黒塚
武門

黒塚や蜉蚋の人影を追ふありき暁台

 茂る檀にいとくらき道露角

安積
同連

かつみかつみと我も又終にもとめず。

それにして置花もがなかつみ草暁台

 かつみし鳰のうき巣流るゝ露鱗

鹽竈明神法楽
宮城郡鹽釜

忝じけないづくはあれど沖鱠暁台

 むすぶ潮に清き藻の花雨石

緒絶橋
志田郡古川

をだえの名、何の由縁とも所に云ひ伝へたる證もさだかならず。土を置てわづかに往来を渡す橋也。世々の歌人おもひをよする事少からず。

短夜のおだえや通ふ夢なかば暁台

 声も跡なう消る蚊ばしら麦雨

高舘覧古
磐井郡山ノ目

命を義に軽し美名を千歳の路傍にとゞむるものは農夫駅馬の藁沓に蹴あらせども、是を汚なりとせず、此一城や勇士逞兵義を尽して、たゞ一朝の雲烟となる。嗚呼死して恨むらくは田横が五百人。

曳々と鳥も鳴くなり夏木立暁台

 川は二瀬にめぐる凉風桑林

松島

百景なかばならず。日すでに晩にかゝり、宿をもとむ。軒は海岸に造りかけて、夜るのながめ、又あらたまりぬ。たち並ぶ島々、月にむかふれば、伊勢小町のありて人しらぬ友とほしからず。桜前浙江の八九を尽して、かの岳陽かくばかりかはと、遠つさかひ迄も今宵の慰とはなれりけり。悲しびを添ふるあり、たのしみをうかべるあり。玉しゐ左右に走つて、いづれにかよらむ。

まつしまや我はもぬけて夜の鶴暁台


奥浅香
木の下の蟹を見による柳かな  露秀

   仙府に暑日の氷買いと珍らしくて

もし梅をそえては来ぬか夏氷 暁台
仙台
子鳴てしばらく小松哉 東鯉

紅梅やとりどりむつぶ女客  丈芝

混陵長兄、明ればいで羽の国へ赴なんとぞ、いと仮初に睦びしより、浮雲と流水とかりのやどりを同じうしては、一盤に糧を分ち帳中につむりつき合せしも、やがて双鳧の雲をへだて、我に李陵の憶ひをいたせり。

広うなる日も頼なし夏座しき暁台

明和七年庚寅秋七月

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