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『奥の細道』   〜東北〜


信夫文知摺観音

東北自動車道福島西ICを出て左折し、国道115号に入る。

さらに左折して国道4号に入り、福島市街に向かう。

福島競馬場の先を右折し、再び国道115号に入る。


信夫文知摺観音がある。

信夫文知摺入口の芭蕉像


平成元年(1989年)4月23日、芭蕉の『奥の細道』紀行300年に建立された。

信夫文知摺観音の拝観料は400円。

鬱蒼とした夏木立の中の高台に芭蕉の句碑がある。


早苗とる手もとや昔しのぶ摺り

 元禄2年(1689年)5月2日(陽暦6月18日)、芭蕉が文知摺石を眺めて詠んだもの。

 寛政6年(1794年)5月、京都の俳人 一無庵丈左房 が文知摺を訪れ、句会を開催したおりに句碑を建立したそうだ。

芭蕉の句碑の奥に文知摺石がある。


 かつてこの地は、綾形石の自然の石紋と綾形、そしてしのぶ草の葉形などを摺りこんだ風雅な模様のしのぶもぢずり絹の産地だった。

どのような模様だったのかは、聞いても分からない。

 あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり。里の童部の来りて教ける。昔は此山の上に侍しを往来の人の麦草をあらして此石を試侍をにくみて此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたりと云。さもあるべき事にや。

『奥の細道』

 「里の童部」が「昔は此山の上に」あった「此石」を「此谷に」つき落とした教えてくれたというが、とてもつき落とせるような石とは思えない。

河原左大臣の歌碑がある。


みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに

明治8年(1875年)の建立だそうだ。

 河原左大臣とは源融(みなもとのとほる)のこと。源融(822−895)は嵯峨天皇の皇子で、源姓を授けられ臣籍に降下。872年左大臣、河原院という豪邸を営んだので、河原左大臣とも言う。宇治の別荘は後の平等院。

 元禄9年(1696年)5月、福島城主堀田正虎は顕彰碑を建立。

 元禄9年(1696年)、天野桃隣は文知摺石を訪れ、句を詠んでいる。

 福嶋より山口村へ一里、此所より阿武隈の渡しを越、山のさしかゝり、谷間に文字摺の石有り。

   ○文字摺の石の幅知扇哉


 元禄13年(1700年)、堀田正虎は出羽 山形 に移封。

 享保元年(1716年)5月6日、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚の途上文知摺石を見ている。

福島にとまり、六日はいからへ村より五六町行、岡辺の渡しをのり、半里余東の麓にしのふ摺の石 あり。苔蘚翠色にして九尺計あり。むかしは絹を摺たるよし。今は石の面は下になりて、背面のみ臥るかことし。

叱と打て鹿子にもせよ石の面
    北


 元文3年(1738年)4月21日、田中千梅は松島行脚の途上、文知摺石を訪ねている。

是より文知摺石 を尋ねてしのふ摺文知摺といひいひ行ば五十邊(イガラベ)と云里の半に石碑を立て其道を教ゆ山口の里と聞て分入ほとに毛知須利の観音立給ふ其前に長壹丈三四尺横八九尺はかり成石なかば土に埋れて苔ふりたり昔はうへ成山際に立てりしか旅人の群来て此石を心見るに麦艸を荒しぬるを悪て山よりつきおとしたれハ石の面下ざまに成て臥たりしとやさも有ぬへし


 延享4年(1747年)、横田柳几は武藤白尼と陸奥を行脚し、文知摺石を訪れている。

   毛知須利石 三章

黒塚に姫百合さきぬ君か代は
    虎杖

姫百合もうつふき連や信夫摺
    柳几

松の葉もこほすや石の忍ふ摺
    白尼


 宝暦2年(1752年)、白井鳥酔は文知摺石を見ている。

○文字摺石 いつの世の人の業にやとしはしはうらみて

   裏見るや摺れぬ石の肌寒し


 宝暦2年(1752年)、和知風光は『宗祇戻』の旅の帰途、文知摺石で句を詠んでいる。

   文字磨石

もしすりやさつと一刷毛しくれ哉


 宝暦5年(1755年)5月17日、南嶺庵梅至は文知摺石で句を詠んでいる。

十七日等舟下部を添て文字すりの石へ案内心安く至る

文知摺の命もミせる覆盆子哉


 宝暦13年(1763年)3月28日、二日坊は文知摺石で句を詠んでいる。

五十辺より文知摺石を見に、桑畑を分入る

尽せしな蝶々の羽も忍ふ摺
   坊


 宝暦13年(1763年)4月、蝶夢は松島遊覧の途上、文知摺石を訪ねている。

安達が嶽の裾をめぐりて、しのぶの山ふかく、もじ摺の石もじ摺の石と尋ねもて行ば、苔むしてふりたる石の面、さも有ぬべし。かしこに観自在立せ給ふ。霧に埋れし堂の扉に、洛の亡友臘舟が手して、

   もじ摺や誰ふところの片しぐれ

と落書せし墨の色、幽に残りたり。さらぬだに、旅の心の一度はかれが行脚の昔をしたひ、一度はいづくの土や我をまつらんものと涙もろなる。


 明和6年(1769年)4月20日、蝶羅は嵐亭と共に忍山・文知摺石に案内された。

   卯月廿日晴天福島出立。子洽・楮白・南楚し
   のぶ山文字摺石 を案内せんと各先にすゝミて

若葉して昼の人目やしのぶ山
   嵐亭

此けしき持て何とて忍山
   蝶羅

   山口むらにて

石の背をたゝく水鶏やミだれ摺
   子洽

みじか夜を女草男草やしのぶ摺
   嵐亭

岩藤をわらびもミだれしのぶずり
   蝶羅

さわらびも草に戻りてしのぶずり
   仝

文字ずりやほたる三ツ四ツミだれぞめ
   仝


 明和7年(1770年)、加藤暁台は奥羽行脚の旅で文知摺石を訪れている。

しのぶ文知摺 は径半里ほど横切てあぶくま川を渡る。
   群鮎や人影くるゝ水の隈
石のおもて今土中にうつ伏す。あだに田夫のなせるなりとぞ。

文知摺やうらに心のなつ衣
暁台

 草蒸(ムセ)さます露の山陰
回車


 明和8年(1771年)6月9日、諸九尼は文知摺石を見ている。

 九日 しのぶずりの石を見る。

   汗ながらしのぶ摺ばや旅ごろも

  伊達の大木戸判官どのゝ腰かけ松 などいふを見て過けり。越川にとまる。


 安永2年(1773年)、 加舎白雄 は文知摺石を訪れた。

 しのぶ文字摺石にむかふ。早苗とりてん小田も遠からぬ山あひにて、石はげにもうつぶせに風わたる秋艸の乱りいとものさびしくて

   石はうつぶせに我は丹摺の袂かな


大島蓼太も文知摺石を訪ねている。

   忍摺の石を尋て

見てのみやいざ帷子にしのぶずり


 安永6年(1777年)8月19日、松村篁雨は文知摺石を訪ね、「堀田正虎顕彰碑」を見ている。

陸奥国信夫郡毛知須利石地中文字不見
始称其名不知何時其説亦未詳也[只恐万世之]地中不見
後人不知其斯石故表而立碑於石[傍云]地中不見

   丙子元禄九年夏五月中日

      福島大守紀正虎[表焉]


 寛政3年(1791年)6月1日、鶴田卓池は文知摺石を見て句を詠んでいる。

   文知摺

草の香や石に乱るゝ夏の露


正岡子規 の句碑もある。



涼しさの昔をかたれ荵摺

昭和12年(1937年)11月、建立。

 明治26年(1893年)7月25日、子規は文知摺石を訪れ、この句を残した。

 25日荵摺の石見んとて行く。平らに打ちならしたる道の苦はなきも三伏の太陽日傘を透かして燬くが如きに路傍涼を取るべき處もなし。町より1里半許り大道の窮まる處の木立甍を漏らすはこれ荵摺の觀音なり。


 三伏とは初伏(夏至後の三度目の庚(かのえ)の日)・中伏(四度目の庚の日)・末伏(立秋後初めての庚の日)の総称。最も暑い時期。夏の季語である。

 明治39年(1906年)10月13日、河東碧梧桐は文知摺石を訪れた。

 正午の汽車で福島へ着き、すぐ放江と文字摺石と岩屋観音を見る。観音は福島の清水であるそうな。文字摺石は近い頃掘り出されて、石の棚などが結うてある。


 昭和40年(1965年)、 山口誓子 は文知摺観音で子規と芭蕉の句碑を訪ねている。

 文知摺石は石の柵の内に、獣の如く伏している。それを流し目に見て、台地へ上ると、子規の句碑がある。小さい自然石、昭和十二年建立。

      荵摺の古跡にて

   涼しさの昔をかたれ荵摺

 「はて知らずの記」(明治二十六年)を読むと、子規は、七月の炎天に洋傘をかざし、一里半余の道を喘ぎながらあるいて行った。二十七歳。

   (中 略)

 その前の古墳のような土盛に、石垣を組んで、芭蕉の句碑がある。六稜角の自然石。

   早苗とる手もとや昔しのぶ摺

 「しのぶもぢずり」と云うのは、模様のある石に布をあて、草の葉で摺って模様を出したのだ。

 芭蕉は、早苗をとる手つきから昔のしのぶもぢずりの手つきを聯想したのだ。

 句碑の建立は寛政六年。しっかりした書だ。

『句碑をたずねて』 (奥の細道)

 昭和43年(1968年)、 水原秋桜子 は文知摺石を訪れた。

   信夫文知摺 二句

石坐る若楓より真青に

信夫山いでて鳴き来る時鳥

『殉教』

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