このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
『奥の細道』
〜東北〜
〜観世寺〜
東北自動車道二本松ICから国道4号に入り福島方面に向かう。
安達ヶ原入口で県道62に入り阿武隈川を渡る。
真弓山観世寺がある。
天台宗
の寺である。
ここは謡曲「安達が原」の舞台となった所。
正岡子規の句碑がある。
涼しさや聞けば昔は鬼の家
明治26年(1893年)7月22日正岡子規 は黒塚を訪れた。
幾曲り幾曲りて長き二本松の町を過ぎ野を行く事半里阿武隈川を渡れば路の側老杉あり。木末も枝のさきも大方枯れ残りて鬼女の如し。下に碑を建てゝ黒塚といふ。兼盛の歌を刻む。其ほとりにある寺は鬼のすみかなりと聞きて到り見るに杉樹鬱葱巨石堆積して常の處とも見えず。
黒塚傘にむらがる夏の峰
『はて知らずの記』
子規27歳の時である。
明治39年(1906年)10月13日、河東碧梧桐は黒塚を訪れた。
二本松では白汀案内して安達が原黒塚の跡を見に行く。岩組のそれかと思われる物があって、側に観世寺という藁葺の寺がある。宝物というものもいろいろ併べてあった。鬼女の薪をとりに行った裏山は、今吉野桜の若木が植えつけられて、安達が原公園と名がかわっておる。
『三千里』
安達が原にて
宝物の鬼気も蝕む秋の風
『新傾向句集』
貞亨3年(1686年)、大淀三千風は安達が原から会津へ。
同葉月廿二日に川俟を立、安達原、黒塚、檀
(まゆみの)
里、二本松に笠舎
(やどり)
して會津にかゝり、
『日本行脚文集』(巻之六)
元禄2年(1689年)5月1日(陽暦6月17日)、芭蕉は黒塚を訪れている。
芭蕉の句碑は無いのか聞いてみると「芭蕉は、ここで句を詠んでいません。」と言われた。うかつであった。
芭蕉休み石
芭蕉が休んだと言われる石だが、あまり根拠があるとは思えない。
二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。
「奥の細道」の記述はこれだけである。
黒塚の岩屋
鬼婆が住んだと言われる岩屋である。この岩屋に生駒之助・恋衣
(こいぎぬ)
と名のる旅の若夫婦が宿を求めてきたのだろうか。
曽良の随行日記には次のように書かれている。
供中ノ渡ト云テ、アブクマヲ越舟渡し有リ。その向ニ黒塚有。小キ塚ニ杉植テ有。又、近所ニ観音堂有。大岩石タヽミ上ゲタル所後ニ有。古ノ黒塚ハこれならん。
「又、近所ニ観音堂有」とあるが、これは観世寺のことだろう。
観世寺の近くにある大きな杉の木の下に
「黒塚」
がある。
昭和3年(1928年)5月、建立。
鬼婆の墓だそうだ。曽良の随行日記に「
小キ塚ニ杉植テ有
」とあったが、その杉の木だろうか。
元禄9年(1696年)、天野桃隣は黒塚で句を詠んでいる。
二本松城下にさしかゝり、亀が井町より半里、阿武隈川の川端に、彼黒塚有、辺は田畑也。此あたりをさして安達原と云。
○塚ばかり今も籠るか麦畠
[無都遅登理 五]
元文3年(1738年)4月21日、田中千梅は松島行脚の途上、黒塚を訪ねている。
今石毎に観音の像を彫
り
て傍に一宇を建
ツ
聖武皇帝の御宇神亀三年那智之東光坊阿闍梨祐慶悪鬼降伏の後これを建
ツ
となん
『松島紀行』
元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、黒塚を訪ねた。
安達が原も近ければ。黒塚を尋ぬ。傳へ聞きしは。岩屋疊み上げて。日月の光を隱し。洞口苔深く。鬼も住みけむ有様なりと聞きしに。さにはあらで。少しの木立有て。切石の壇のやうなるが。二つ三つ有るのみなり。陸奥名取郡黒塚といふ所に。重之か妹尼と成て住むと聞きて。平兼盛。
みちのくのあだちが原の黒塚におにこもれりといふはまことか
と詠みし。彼の尼の住みける礎の跡なるよし。鬼。御尼の通じたるを誤りたるなるべし。
『蝶之遊』
寛保2年(1742年)4月13日、大島蓼太は奥の細道行脚に出る。10月6日、江戸に戻る。
黒塚
桑子さへ齒音おそろし木下闇
『蓼太句集』(安永版)
延享4年(1747年)、武藤白尼は横田柳几と陸奥行脚し、安達原の岩窟を一見している。
安達原の岩窟を一見して
黒塚に姫百合さきぬ君か代は
尼
『二笈集』
寛延4年(1751年)秋、和知風光は『宗祇戻』の旅で黒塚を訪れた。
安達原黒塚にて
黒塚はまた昼なから秋の風
『宗祇戻』
宝暦2年(1752年)、白井鳥酔は黒塚で句を詠んでいる。
○黒塚 安達か原に人肌藥師といふあり別當は今に祐慶といふとそ
黒塚やまことしからぬ女郎花
『露柱先師懐玉抄』
明和元年(1764年)、内山逸峰は黒塚を訪れ、歌を詠んでいる。
明るひ、安達郡黒塚 を見ばやとたどりつゝやゝ至てみれば、ひろさ十四五間四方にして、高さ三四丈もあらんか、のこらず大岩にて、あゐ
(ひ)
だあゐ
(ひ)
だをくゞりありくやうなる所もあり。昔は岩屋にて有しが、今は破れうがちたる物と見えたり。
黒塚やめに見えぬ鬼もこもるらんむかしを残す岩のしたかげ
苔むしし岩かげくらき黒塚やさこそは今も鬼こもるらん
『東路露分衣』
明和6年(1769年)4月17日、蝶羅は嵐亭と共に安達が原を訪れ句を詠んでいる。
安達が原 黒塚
黒鴨もこもるか塚のそのあたり
蝶羅
黒塚や枳殻の角ハ花の時
仝
鬼百合は剛力どもが詠めかな
嵐亭
『松のわらひ』
明和7年(1770年)、加藤暁台は『奥の細道』の跡を辿り、安達が原で句を詠んでいる。
安達が原
黒塚や蚋
(ぶと)
旅人を追ひまはる
『暁台句集』
明和8年(1771年)6月7日、諸九尼は安達が原の岩屋に案内された。
七日 元宮の青龍師をとふ。また二本松の一声上人を尋まい
(ゐ)
らせけるに、安達が原の窟
(いはや)
みよとて、案内者を添らる。阿武隈川をわたりて、御寺に帰る。
『秋風記』
安永2年(1773年)、
加舎白雄
は黒塚を訪れた。
安達が原の黒塚をたづね入しにあやしのいはやあやしの小家こゝかしこに重元のいもうと君すみ給ひしことふるきふみに見へたるをおもひ出て
くろつかやきぬうつ女住まじる
「奥羽紀行」
寛政3年(1791年)6月2日、鶴田卓池は安達が原を訪れ句を詠んでいる。
安達原
昼顔に身をうつ蜂のいかり哉
『奥羽記行』
鬼塚の婆ゝとは見えぬ紙子哉
『七番日記』(文化9年6月)
みちのくの鬼住里も桜かな
『七番日記』(文化11年2月)
一茶が訪ねてきたわけではない。
昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、黒塚を訪れた。
橋一つ渡つた處に、4、5軒の部落、其處に一本の老杉あつて、高さ一間ほどの塚の上に立つ、即ちみちのくの、安達が原の黒塚なるもの、そのかみ草木生ひ茂つて遠く望めば黒々と見えたで此名あるか、杉の木の下に二尺ほどの立札、朱色に塗つて白字で達筆に黒塚と記してある、その朱も白も古び燻んで見えた。
『奥のほそみち画冊』
「黒塚」の隣にあったのが平兼盛の歌碑。
みちのくの安達ヶ原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか
歌碑だとは思わなかったので、写真は撮らなかった。
後日
、写真を撮った。
赤湯温泉
へ
『奥の細道』〜東北〜
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください