このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
芭蕉の句碑
『奥の細道』
野を横に馬牽むけよほとゝぎす
那須塩原市の県道72号大田原芦野線は旧陸羽街道。
那須塩原市鍋掛の鍋掛交差点に芭蕉の句碑があった。
野を横に馬牽むけよほとゝきす
芭蕉が元禄2年(1689年)3月(旧暦)「奥の細道」行に旅立ち、
黒羽
より
高久
に向かう道すがら4月16日、手綱をとる馬方の願いにより与えた句を碑にしたものである。
野を横に馬牽きむけよほとゝぎす
この句は、どのあたりでつくられたかは明らかではないが、余瀬より蜂巣を過ぎると野間までは広い原野が続いていたので、この間につくられたものと思われる。
その昔行われた那須野の狩を想い起こし「私も武将になったつもりで、いばって命令してみようか」という心境で詠んだものである。
句碑の建立は、文化5年(1808年)10月に、当時鍋掛宿の俳人菊池某外数名によるものと想われる。
平成5年(1993年)3月、街道景観形成事業により、ここに立て替えられた。
黒磯市教育委員会
2005年1月1日、黒磯市は西那須野町、塩原町と合併し、那須塩原市となった。
鍋掛宿
鍋掛宿は、江戸時代の五街道の一つ奥州街道の宿場として栄えた集落であり、最盛期には、戸数も百余戸を数え、旅籠、茶屋、その他多くの商家などで賑わったという。
江戸時代初期の正保3年(1646年)以後は幕府直轄地天領として明治まで治められた。
明和6年(1769年)4月、蝶羅は奥羽行脚の途上那須野で句を詠んでいる。
那須野 にて雨降ければ
篠はらや夕立たバしる丸合羽
蝶羅
『松のわらひ』
明和7年(1770年)、加藤暁台は那須野で句を詠んでいる。
なす野 にて
野を横に竪に蕨の広葉かな
『
二編
しをり萩』
明和8年(1771年)8月13、4日、諸九尼は那須野の原を通る。
十三日四日 那須野ゝ原を通る。秋のゝのひろきもまたなし。しれる草花の数かぎりなき中にも、
物いはゞ声いかならん女郎花
分入ば鳥の出てゆくすゝきかな 只言
『秋風記』
寛政3年(1791年)6月4日、鶴田卓池は芦野・鍋掛・大田原を通り、矢板に泊まる。
那須野
鳥影も見えぬ那須野の旱かな
『奥羽記行』
那須のゝ原にて
ありありと影見てきくや郭公
飛倦て木がくれなきや時鳥
『青々処句集』
芭蕉の句碑
『奥の細道』
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