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『奥の細道』   〜東北〜


〜安積山〜

須賀川 から県道355号須賀川二本松線を行く。

県道355号は旧陸羽街道、奥州街道である。

 文明19年(1487年)、道興准后は安積山で歌を詠んでいる。

是より田村といへる所に罷りける道すがら、さまざまの名所ども多かりけり。いひすてし歌など記すに及ばず。あさかの沼にて、

   はなかつみかつそうつろふ下水のあさかの沼は春深くして

あさか山にてよめる

   ちりつもる花にせかれて浅か山浅くはみえぬ山のゐの水


郡山市日和田町安積山に安積山公園があった。


安積山

 元禄2年5月1日(西暦1689年6月17日)、松尾芭蕉と曽良は『奥の細道』紀行で、ここ安積山を訪れている。

 「安積山」は『万葉集』に詠まれている歌枕として有名で、芭蕉はここで「花かつみ」を尋ね歩いている。

 『奥の細道』には次のように記されている。

 「 等窮 が宅を出て五里計、檜皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。...」

郡山市

万葉の歌碑 があった。


安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を吾(あ)が思(も)はなくに

『万葉集』 (巻16)の相聞歌である。

河東碧梧桐は「山の井」について書いている。

 花かつみというものに種々の説があってその物の不明であるように、安積山というにも種々の考証があって、どの山であるかが判然とせぬ。奥の細道に「等窮の宅を出て五里許檜皮の宿をはなれてあさか山有」と記しておるのは、土俗の口碑によったのであろう。郡山の西一里余「あさか山影さへ見ゆる山の井に」とあるその山の井の跡という者があるけれども、もとより信拠するに足らぬ。昔このあたり総て「あさか」と称えておって、奥州街道は安達太良連山一帯の峰づたいにあったらしい形跡がある。今の安達太良が「あさか山」で猪苗代湖が「山の井」でないか、という説もある。


大正14年(1925年)7月8日、 荻原井泉水 は安積山を訪れている。

山の中腹に碑が立っている、上ってみると

   あさか山かげさへみゆる山の井の

      浅き心を吾がおもはなくに

という采女の歌が刻してある。山は丈の低い草がその肌を蔽うて、松の木がばらばらと疎らに立っている。

『随筆芭蕉』 (浅香山と黒塚)

「おくのほそ道」碑


 等窮が宅を出て五里計、檜皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、「かつみかつみ」と尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。

『奥の細道』(安積山)

 享保元年(1716年)5月3日、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚の途上浅香山を通る。

日和田宿はつれに松浦さよ姫造営の蛇骨の地蔵堂あり。いふかし。浅香山は道の東に仮山のことく峠に松一木、旅人ねかひあれは紙を結ひてあさからぬ心をむすふ。沼は西の方山間にあり。かつみはあやめを所のならはしにてこの名をよふよし申ぬ。


 元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、淺香の沼に着く。

岩瀬の森を過ぎて。淺香の沼に着く。彼の翁のかつみかつみと求め給ひし。我も亦尋ぬれども。里人は知らず。花かつみとは菰(まこも)の事なる由。又あやめといへる説あれど。苅といふなれば菰なるべし。淺香山は道の右の邊り。高からぬ山なり。頂に松一木あり。往来の人立寄り。枝に紙を結び付て。男女の縁淺からず結び逢はん事を願ふとなり。

   淺香山麓の草を敷島の道知顔に踏分るかな。

と打詠じ。我ながらをかし。


 寛保2年(1742年)4月13日、大島蓼太は奥の細道行脚に出る。10月6日、江戸に戻る。

大島蓼太も「花かつみ」を尋ねている。

   花かつみを尋て

里人はわすれ草とも花かつみ


 延享2年(1745年)、望月宋屋は「奥の細道」を辿る旅に出て、「花かつみ」を句に詠んでいる。

   淺香沼

冬枯にいづれと分ん花かつみ


 延享4年(1747年)、横田柳几と武藤白尼は陸奥行脚で「花かつみ」を尋ねている。

   翁の尋ね残されし花かつみを糺さむと沼のほとりを
   かなたこなたと見めくれと更にそれそとしるへの草
   もなくたゝ折から咲るものには

かつみとは猶おほつかな華あやめ


   駅路の右手に浅香やまあり無下に過んも口おしけれは
   かの山の井をたつねのほりて

今もその影や浅香の山清水



姫射干(ひめしゃが)


郡山市の花に制定されているそうだ。

「花かつみ」のことだという。

 芭蕉や山崎北華、横田柳几が尋ねても分からなかったのだから、本当のことは分からない。

 寛延4年(1751年)秋、和知風光は『宗祇戻』の旅で浅香沼を訪れた。

ひそた村東称寺後山間に浅香沼 有今は田となりて跡かたもなし海道に蛇骨堂さよ姫の御影有山の内に蛇かふり石有棚木のさくらあり

名計や稲苅のこる浅香沼

むかしおもふ棚木の桜紅葉して


 宝暦2年(1752年)、白井鳥酔は浅香沼で「花かつみ」を尋ねている。

○淺香の沼 今は田となりて沼はかたちはかり殘れり花かつみは太藺(フトイ)に似たるものにして苅て用なしと田苅の男の答ふ

   稲苅の鎌にはしらす花かつみ


 宝暦13年(1763年)4月、蝶夢は松島遊覧の途上、安積山を訪れている。

阿武隈川打わたれば、岩瀬の杜なり。浅香の沼は田と成て、早乙女のうたひつれたる声賑はしく、浅香山は影さへ見えぬ小さき山なり。山の井は是より遙の山陰なりといへば、立もえよらず。


 明和7年(1770年)、加藤暁台は『奥の細道』の跡を辿り、安積で句を詠んでいる。

   浅香にて

かつ色やかつみかけ行負具足


 明和8年(1771年)6月6日、諸九尼は「花かつみ」を見に浅香沼に行く。

 六日 雨晴れぬれ立出て、花かつミ 生ふときゝし浅香の沼をみる。きのふの雨に水まさりて、いづれをそれと引わづろ(ら)う。

   花かつミうづて水の濁けり


 安永2年(1773年)7月、加舎白雄は「奥羽紀行」の旅で安積山を訪れた。

 日和田の駅より高倉へゆく道のかたはらに安積山たちけりあさかの沼はかしこの東勝寺いへるみてらのうしろにありとつげけるまゝに

   浅香山かつ見てゆかん沼の秋も


 寛政3年(1791年)6月2日、鶴田卓池は浅香山を訪れている。

壱り十一丁杉田 壱り十八丁本宮 弐り十二丁

日和田 浅香山  あさかの沼

   みちのくのあさかの沼の花かつみかつミる人に恋やわたらん

   春野のあさかの沼にあさりしてかつミの下葉ふみしだくなり

   浅香山かげさへ見ゆる山の井のあさくも人を思ふものかハ

   あやめ草引手もたゆく長き根のいかであさかの沼に生けん

『奥羽記行』 (自筆稿本)

達沢の不動滝

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