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向井去来

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『去来抄』

 安永4年(1775年)3月、 加藤暁台 は『去来抄』(去来著)板行。暁台序、士朗跋。

先師評 外人之評有といへども、先師の一事をまじ[ふ]る物は此に記す

蓬莱に聞ばやいせの初だより
   芭蕉

 深川よりの文に「此句さまざまの評有。汝いかゞ聞侍るや」と也。去来曰、「都・古郷の便ともあらず、いせと侍るは、元日の式の今様ならぬに神代をおもひ出でて、便聞ばやと、道祖神のはや胸中をさは(わ)がし奉るとこそ承り侍る」と申。先師返事に曰、「汝聞処にたがはず。今日神のかうがう敷あたりをおもひ出て、慈鎮和尚の詞にたより、「初」の一字を吟じ侍る斗なり」と也。

辛崎の松は花より朧にて
   芭蕉

 伏見の作者、にて留の難有。其角曰、にては哉にかよふ。この故に哉どめのほ句に、にて留の第三を嫌ふ。哉といへば句切迫なれバ、にてとハ侍也。呂丸曰、にて留の事は已に其角が解有。又此ハ第三の句也。いかでほ句とはなし給ふや。去來曰、是ハ即興感偶にて、ほ句たる事うたがひなし。第三ハ句案に渡る。もし句案に渡らバ第二等にくだらん。先師重て曰、角・來が辨皆理屈なり。我ハたゞ花より松の朧にて、おもしろかりしのみト也。

行春を近江の人とお(を)しみけり
   ばせを

 先師曰、「 尚白 が難に、「「近江」は「丹波」にも、「行春」は「行歳」にもふるべし」といへり。汝いかゞ聞侍るや」。去来曰、「尚白が難あたらず。湖水朦朧として春をお(を)しむに便有べし。殊に今日の上に侍る」と申。先師曰、「しかり。古人も此国に春を愛する事、お(を)さお(を)さ都におとらざる物を」。去来曰、「此一言心に徹す。行歳近江にゐ給はゞ、いかでか此感ましまさん。行春丹波にゐ(い)まさば、本より此情うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、真成哉」申。先師曰、「汝は去来、共に風雅をかたるべきもの也」と、殊更に悦給ひけり。

凩に二日の月のふきちるか
    荷兮


凩の地にもおとさぬしぐれ哉
   去来

 去来曰、「「二日の月」といひ、「吹ちるか」と働たるあたり、予が句に遙か勝れりと覚ゆ」。先師曰、「兮が句は、二日の月といふ物にて作せり。其名目をのぞけばさせる事なし。汝が句は、何を以て作したるとも見えず、全躰の好句也。たゞ「地迄」とかぎりたる「迄」の字いやし」とて、直したまへり。初は「地迄おとさぬ」也。

清滝や浪にちりなき夏の月
   ばせを

すゞしさの野山にみつる念仏哉
   去来

 此は善光寺如来の、洛陽真如堂に遷座有し日の吟にて、初の冠は「ひいやりと」也。先師曰く「かゝる句は、全体おとなしく仕立るもの也。また五文字しかるべからず」とて、「風薫」と改め給ふ。 『後猿』 撰の時、再び今の冠に直して入句ましましけり。

 先師、難波の病床にを召て曰、「頃日(このごろ)園女が方にて、「しら菊の目にたてゝ見る塵もなし」と作す。過し比ノ句に似たれば、清滝の句を案じかえ(へ)たり。初の草稿、野明がかたに有らん。取てやぶるべし」と也。然ども、はや集々にもれ出侍れば、すつるに及ばず。名人の、句に心を用ひ給ふ事しらるべし。

病鴈のよさむに落て旅ね哉
   ばせを

あまのやは小海老にまじるいとゞ哉
   同

  『さるみの』 撰の時、「此内一句入集すべし」也。凡兆は「病鴈はさる事なれど、小海老に雜るいとゞは、句のかけり・事あたらしさ、誠に秀逸[の]句也」乞。去来は「小海老の句は珍しといへど、其物を案じたる時は、予が口にもいでん。病鴈は格高く趣かすかにして、いかでか爰を案じつけん」と論じ、終に両句ともに乞て入集す。其後先師曰、「病鴈を小海老などゝ同じごとく論じけり」と笑ひ給ひけり。

岩鼻やこゝにもひとり月の客
   去来

 先師上洛の時、去来曰、「 酒堂 は此句を月の猿と申侍れど、予は客勝なんと申。いかゞ侍るや。」先師曰、「猿とは何事ぞ。汝、此句をいかにおもひて作せるや。」去来曰、「明月に乗じ山野吟歩し侍るに、岩頭又一人の騒客を見付たる」と申。先師曰、「こゝにもひとり月の客、己と名乗出らんこそ、幾ばくの風流ならん。たゞ自称の句となすべし。此句は我も珍重して、『笈の小文』に書入ける」となん。予が趣向は猶二、三等もくだり侍りなん。先師の意を以て見れば、少狂者の感も有にや。

 退て考ふるに、自称の句となして見れば、狂者の様もうかみて、はじめの句の趣向にまされる事十倍せり。誠に作者そのこゝろをしらざりけり。

 去来曰、『笈の小文集』は先師自撰の集也。名をきゝていまだ書を見ず。定て原稿半にて遷化ましましけり。此時予申けるは、「予がほ句幾句か御集に入侍るや」と窺ふ。先師曰、「我が門人、『笈の小文』に入句、三句持たるものはまれならん。汝、過分の事をいへり」と也。

うづくまるやくわんの下のさむさ哉    丈艸

 先師、難波〔の〕病床に、人々に夜伽の句をすゝめて、「今日より我が死期(後)の句也。一字の相談を加ふべからず」也。さまざまの吟ども多侍りけれど、たゞ此一句のみ、「丈艸出来たり」との給ふ。かゝる時は、かゝる情こそうごかめ。興を催し景をさぐるいとまはあらじとは、此時こそおもひしり侍りける。

手をはなつ中に落けり朧月
   去来

 魯町に別るゝ句也。先師曰、「此句悪きといふにはあらず。功者にてたゞ謂まぎらされたる句也」。去来曰、「いか様にさしてなき事を、句上にてあやつりたる処有。しかれど、いまだ十分に解せず。が心中には一物侍れど、句上にあらはれずと見ゆ。いはゆる是、意到句不到也」。

いそがしや沖のしぐれの真帆かた帆
   去来

 去来曰、「 『猿みの』 は新風の始、時雨は此集の美(眉)目なるに、此句仕そこなひ侍る。たゞ「有明や片帆にうけて一時雨」といはゞ、「いそがしや」も、「真帆」も、その内にこもりて、句のはしりよく、心のねばりすくなからん」。先師曰、「沖の時雨といふも、又一ふしにてよし。されど、句ははるかにおとり侍る」也。

山路きて何やらゆかし菫草
   芭蕉

 湖春曰、「菫は山によまず。芭蕉翁、徘(俳)諧に巧なりと云へども、歌学なきの過也」。去来曰、「山路に菫をよみたる証歌多し。湖春は地下の歌道者也。いかでかくは難じられけん、おぼつかなし」。

春の野をたゞ一のみや雉子の声
   野明

 初は、「春風や広野にうてぬ雉子の声」也。去来曰、うてる・うてぬとあたり相(合)ていやし。「広野をたゞ一のみや」といはん。丈艸曰、「広」の字、猶いやし。「春の野」有らんか。去来心腹

駒買に出迎ふ野べの薄かな
   野明

 去来曰、駒買に人に(の)出迎ふ(う)たる野べの薄にや。又は直薄の風情にや。野明曰、薄の上也。来曰、初よりさは聞侍れど、吾子の徘(俳)諧のかく上達セんはおもはざりし。たゞ驚入侍るのみ。支考曰、句秀拙はともかくも、野明此場をしらるゝ事、いとふしん也と感吟す。、此人を教る事とし有。曾て不通。一とせ、先師曰、廿日斗の旅ねに抜群上達せり。常に俳友なく修行むなし。然ども先師をはじめ、丈艸・支考など、折ふし会吟して、外のわる功をしられず、おのづからかゝる句も出で来れり。まことに手筋を尊むべし。たゞ平生徘(俳)意弱きを難とす。

鞍坪(壷)に小坊主のるや大根引
   ばせを

 蘭国曰、「此句、いかなる処か面白き」。去来曰、「吾子今マ(ママ)解しがたからん。只、図してしらるべし。たとへば、花を図するに、奇山・幽谷・霊社・古寺・禁闕によらば、その図よからん。 よきがゆへ(ゑ)に古来おほし。如此の類は図の悪敷にはあらず。不珍なれば取はやさず。 又、図となして、かたちこのましからぬものあらん。此等、元より図あしとて用ひられず。今珍らしく雅ナル図アラバ、此を画となしてもよからん。句となしてもよからん。されば、大根引の傍に草はむ馬の首うちさげたらん、鞍坪(壷)に小坊主のちよつこりと乗りたる図あらば、古からんや、拙なからんや、察しらるべし」。国が兄何某、却て国より感驚。かれは俳諧をしらずといへども、画を能するゆへ(ゑ)也。図師尚景が子也。

 卯七曰、「蕉門に無季の句興行侍るや」。去来曰、「無季の句は折々有。興行はいまだ聞ず。先師曰、発句も四季のみならず、恋・旅・名所・離別等、無季の句ありたきもの也。されど、如何なる故ありて、四季のみとは定め置れけん。其事をしらざれば、暫く黙止(もだし)侍る」也。其無季といふに二有。一は前後・表裏、季と見るべき物なし。落馬即興に、

歩行ならば杖つき坂を落馬哉
   ばせを

何となく柴吹かぜも哀れなり
    杉風

 又詞に季なしといへども、一句に季と見る所有て、或は歳旦とも、名月とも定る有り。

年々や猿に着せたる猿の面
   ばせを

 如斯(かくのごとき)也」。



 去来曰く、「古事・古歌を取るには、本哥を一段すり上て作すべし、喩へば、「蛤よりは石花(かき)を売れかし」といふ西行の歌を取て、

    かきよりは海苦(苔)をば老の売りはせで

と先師の作あり。本哥は、同じ生物をうるともかきを売れ、石花はかんきんの二字に叶ふといふを、先師は生物を売らんよりのりを売れ、海苦(苔)は法(のり)にかなふと、一段すり上て作り給ふ也。「老」の字、力あり。大概かくのごとし」。



 先師曰、俳名は穴勝熟字によらず、只となへ清く調ひ、字形の風流なるを用ゆべし。短冊など書て猶見る所あり。片名書侍るに、ことごとしき字形は苦しかるべし。「はせを」はかなに書ての自慢也となり。又、野明が名を初鳳仭と言けるを、劍刄の宿(有)字名に用ゆべからずとて、先師〔の〕野明と〔は〕改め給ひける。



 野明曰、「句のしほ(を)り・細みとはいかなる物にや」。去來曰、「しほ(を)りは憐なる句にあらず。細みは便りなき句にあらず。そのしほ(を)りは句の姿にあり。細みは句意にあり。是も又、俳(証)句あげて弁ず。

鳥共も寐入て居るかよごの海
   路通

 先師、「此句細みあり」と評し給ひしと也。又、

十團子も小粒になりぬ秋の風
   許六

 先師、「此句しほ(を)りあり」と評し給ひしと也。惣じて、さび・位・細み・しほ(を)りの事は、言語筆頭にいひ応せがたし。唯、先師の評ある句をあげ(て)侍るのみ。他は押てしるべし。

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