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芭蕉の句碑
歩行ならば杖つき坂を落馬かな
四日市市采女町の旧東海道に杖衝坂がある。
史蹟
杖衝坂
杖衝坂と血塚
杖突坂とも書き、東海道の中でも急坂な所で、
日本武尊
が東征の帰途、大変疲れられ「其地より、やや少しいでますにいたく疲れませるによりて、御杖をつかして、梢に歩みましき、故其地を杖衝坂といふ」(『古事記』)とあり、その名が称されるようになり、加えて、芭蕉の句「徒歩
(かち)
ならば杖つき坂を落馬かな」により、その名が世に知られることになった。また、坂を上りきった所には、尊の足の出血を封じたとの所伝から血塚の祠もある。
杖衝坂に芭蕉の句碑があった。
歩行ならば杖つき坂を落馬かな
出典は
『笈の小文』
。
紀 行
さやの舟まはり[せ]しに、有明の月入はてゝ、みのぢ、あふみ路の山々雪降かゝりていとお
(を)
かしきに、おそろしく髭生たるものゝふの下部などいふものゝ、やゝもすれば折々舟人をねめいかるぞ、興うしなふ心地せらる。桑名より処々馬に乗て、杖つき坂引のぼすとて、荷鞍うちかへりて、馬より落ぬ。ものゝ便なきひとり旅さへあるを、「まさなの乗てや」と、馬子にはしかられながら、
かちならば杖つき坂を落馬哉
といひけれども、季の言葉なし。雑の句といはんもあしからじ。
ばせを
そのゝちいがの人々に此句の脇してみるべき
よし申されしを
角のとがらぬ牛もあるもの
土芳
『笈日記』
(伊賀部)
季語のない有名な句である。
去来答曰、先師もたまたま無季の句有。しかれ共いまだにおし出して是を作し給はず。有
(或)
時の給ふ
(宣)
は、「神祗・釈教・賀・哀傷・無常・述懐・離別・恋・旅・名所等の句は無季格別有度ものなり。是を興行せんと思ひ侍れ共、しばらく思ふ所有」と云々。無季の句といへるは、落馬の即興
ニ
、
歩行ならば杖つき坂を落馬哉
先師
何も
(と)
なく柴吹風もあはれなり
杉風
此句は先師の旅行を送りての吟なり。
『旅寝論』
宝暦6年(1756年)8月、村田鵤州建立。
碑の側面から裏面にかけて次のように刻み込まれている。
この坂に杖つきの名のあることは日本武尊醒ヶ井のお足を三重の縣にひきます時佩きたまへるところの御剣をときはじめて杖につき給ふより二千歳の今までも野童樵夫これを呼ぶこと大尊を尊崇し奉る自然の徳化成るべしされば芭蕉翁の五文字に自己を罪して世に実情を導く此の意即ち我が国の大道なり予これを感ずるのあまり不朽の石に雫してふるきをしのぶ旅客にもてなすのみ
花に雪にこゝろを杖のみちしるへ
白梵菴門人 村田鵤州誌
寶暦六年丙子秋八月之吉
白梵菴は尾張名古屋藩家老成瀬家の家臣榎本馬州。
露川
の門人。
名古屋市の
清浄寺
に句碑がある。
俳聖松尾芭蕉が貞享4年(1687年)に江戸から伊賀に帰る途中、馬に乗ってこの坂にさしかかったが、急な坂のため馬の鞍とともに落馬したという。そのときに詠んだ季語のない有名な句である。
宝暦6年(1756年)村田鵤州が杖衝坂の中ほどにその句碑を建てた。
明治初期、坂の下采女西町永田精一郎氏の庭園に移されたが、このたび現所有者の藤沢一郎氏ご夫妻のご理解により、再びこの地に移設したものである。
『諸国翁墳記』
に「
落馬塚 勢州杖突坂
ニ
在
四日市
鵤州建
」とある。
鵤州の句
其梅に其鳥なくもほとゝきす
『蕉翁追善集』
享和元年(1801年)3月7日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で杖衝坂の芭蕉の句碑を見ている。
杖衝坂にかゝりてかちよりゆく。これは日本武尊東征してかへり給ふ時、御足いたみありて御剣を解て杖につき給ふより、此名ありとぞ。ばせを翁が句に、歩行ならば杖つき坂を落馬かな、といへる此所なり。坂上に芭蕉の碑あり。
『改元紀行』
文化2年(1805年)11月4日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で杖突坂を下る。
石藥師をすぎ、杖突坂を下り、追分にいたる。
『小春紀行』
文政10年(1827年)4月27日、鶴田卓池は岡崎を出発、長崎へ旅立つ。
杖突坂にて
杖突ハ歩行こそよけれねぶの花
「長崎紀行」
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