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俳 人

田中千梅
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『松島紀行』

 近江国栗太郡辻村の鋳物師。田中七左衛門知義。 三上千那 の門人。亜靖。方鏡閣。方鏡叟白翁、のち千梅と号した。

 寛永17年(1640年)、太田氏釜屋六右衛門と田中氏釜屋七右衛門は江戸に店を出す。通称釜六釜七と称した。

 万治2年(1659年)、深川の小名木川畦で鍋釜を鋳造。

 延宝7年(1679年)、田中七右衛門知次は退休して江州辻村へ帰郷。

 貞亨3年(1686年)、千梅は田中七右衛門知次の子として生まれる。知次71歳の時である。

 元禄6年(1693年)7月26日、知次は辻村で没。78歳。

 元禄7年(1694年)8月、知次一周忌にあたり田中七右衛門重次らは栗東市の井口天神社青銅製鳥居を江戸深川で鋳造。鳥居は分解式になっている。この鳥居は金属供出も奇跡的に免れ、現存する。市指定文化財である。

 元禄11年(1698年)頃、千梅は江戸に下る。業を継ぐ。

 宝永5年(1708年)6月中頃、千那は鎌倉から江戸に帰る。田中千梅の「千梅林」に逗留して俳諧。

牛町引入たる牛のいくめくりして、深川千梅がもとに立よる。風雅にかげかうばし。又鎧のわたしに隣る。文竿にしたしく、俳諧の連歌有、


 宝永6年(1709年)、千那は千梅の邸宅「千梅林」に逗留している。

古翁の芭蕉庵は元深川 長慶寺 の地なり 花の雲鐘は上野か と眺望せられし俤なつかしく今も残りぬ。か千梅林は 此川下や月の友 と小船に棹をさゝれし 五本松 と云処也風雅は必住所にしもよらされとも 西上人 はとくとくの清水を汲れ 能因 は象潟に杖を止いつれか景色の住を求めさる

清流 (祇空)や 其角 も千梅林を尋ねている。

   千梅林に尋まかりて

よし花の匂ひそしはし門の船
   清流

   同しく花見に人の子を愛して

折とても花の間の世忰かな
   其角


 正徳4年(1714年)、下総国銚子にあった店を買い取り手代庄兵衛に譲っている。

 正徳5年(1715年)11月、千梅は江戸に下る。30歳の時である。

坂ノ下にやどる。折りを感ずる時雨も常ならで、心寂し。馬上の眠り覚せとて、菓子・くだもの賽布の底に入れ給はるを探り出しぬ。悲母の恩、今宵更に深し。

の日ハ桑名泊り翌あさふね也駿風時の間に熱田に着


 享保元年(1718年)8月14日、千梅林亜靖が中秋の名月を賞すべく、文千・雪刀と共に鹿島に遊ぶ。 『鹿島紀行』 (千梅林亜靖)

 享保6年(1721年)、須磨明石の旅。

 享保8年(1723年)、千那死去。

 享保10年(1725年)9月、千那の三回忌集 『鎌倉海道』 (千梅編)刊。

 江戸深川千梅林の他、在所である江州辻村(栗東市辻)には方鏡閣と名づける庵があった。

 元文3年(1738年)4月12日、千梅は江戸を発し日光那須松島等を遊歴し、5月10日、家に帰る。

時は元文三とせにや卯の花月も中の二日まつ日光の御神事拝せんと心さしあハよくハ白川の関をも越んと祇翁の名取集先師の奥乃紀行旅硯ひとつなん袋に押込深川の市中を出る


 元文4年(1739年)春、伊賀の加藤原松は千梅の方鏡閣を訪ねている。

江東に方鏡叟を訪ひ草津の駅より雨にあひて

   蝶々の雨に逃げ込む玄関かな   原松

饗応の酒花井紅葉を愛でゝ

   花紅葉春の二夜を酔せけり

 元文4年(1739年)、『松島紀行』(若葉の奥)刊。

 寛保3年(1743年)、芭蕉五十回忌に 「芭蕉塚」 造立。



 寛保4年(1744年)、記念集『千どりの恩』を上梓。

 寛延元年(1748年)、「吐風楼」を営む。

予一とせ江東に閣を造て方竟と号し鈴鹿三上の素月を迎へ比良四明の斜陽を送れるより花に鳥に雨に雪に造化の功を竊雲外の景を奪ふ事今に卅餘年然るに是年の夏東武の溽暑に倦でひとつの閣を営吐風樓と名づく

『自娯文艸』(巻四)「吐風樓記」

 宝暦3年(1753年)10月、芭蕉没後60年に千梅の門人梅輦は梅斧と三井親和の書で伊勢松坂 菅相寺 に「芭蕉塚」を建立。千梅は江戸から菅相寺に参詣した。



芭蕉翁桃靑居士

芭蕉塚造立と聞より感にたへず、遥々東武を馳て此県に至り、両子を訪ひて菅相院に詣す

松風の咽ぶも嬉し雪の花
   方竟千梅

『千ひろの陰』

 宝暦5年(1755年)、 『芭蕉句選拾遺』 序。

 宝暦8年(1758年)4月26日夜、千梅 は千代倉家を訪ねているようである。

四月廿六日 曇昼比快晴 今日廿二日出あたみ十八日出、同日江戸届ク。入湯相応之由。

 一、夜ニ入、江州辻村田中白翁老人来訪。俳談有。鉄叟贈答有。色々咄ス。今夕氏雲泊り之由。

『千代倉家日記抄』(和菊日記)

 宝暦8年(1758年)、『自娯文艸』自序。

 宝暦9年(1759年)、『自娯文艸』刊。田中鳴門序。

 田中鳴門は近江国栗太郡辻村出身の漢詩人。千梅と同郷である。通称は金屋七郎右衛門。

 明和3年(1766年)秋、千梅は江州辻村から江戸深川の千梅林に遊ぶ。81歳の時である。

過ぎし明和戌秋より東武深川千梅林に遊び給ふ

『なつぼうず』

明和6年(1769年)4月15日、江戸深川で没。享年84歳。

もろもろの蓙掃捨て夏坊主

 明和7年(1770年)、千梅追悼集『なつぼうず』(花仙・杞柳編)上梓。蒲萄坊米角序。

花仙は千梅の三男。杞柳は孫。葡萄坊は千那の曾孫。

天明8年(1788年)3月27日、鳴門は67歳で没。

千梅の句

青桐の雫しほるや蝉の声


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