このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

『奥の細道』


〜日光例幣使街道〜

 元禄2年(1689年)4月1日(新暦5月19日)、芭蕉は小雨が降る中、 鹿沼の宿 を出て日光に向かった。

 一 四月朔日

  前夜ヨリ小雨降。辰上尅、宿ヲ出。止テハ折々小雨ス。終日雲、午ノ尅、日光ヘ着。雨止。

『曽良随行日記』

 また前日3月29日(新暦5月18日)の『曽良随行日記』には、次のように書かれている。

(火バサミヨリ板橋ヘ廿八丁、板橋ヨリ今市ヘ弐リ、今市ヨリ鉢石ヘ弐リ。)

JR日光線に沿って国道121号を行くと、文挟(ふばさみ)がある。


JR日光線文挟(ふばさみ)


『曽良随行日記』にある「火バサミ」である。

 国道121号(旧 日光例幣使街道 )は今市で国道119号(日光街道)に合流する。


例幣使杉並木街道


 徳川家康の忠臣松平正綱が20余年の年月をかけて杉を植え、慶安元年(1648年)4月17日、徳川家康の三十三回忌にあたり日光東照宮に寄進したということである。

 文政6年(1823年)、市原多代女は日光から杉の並木を通って宇都宮へ。

 杉の並木のいと珍らしくて

春風の光りも杉の並木かな


合流点に追分地蔵がある。


 追分地蔵の制作年代は明らかではないが、八代将軍徳川吉宗(1716−1745)の日光社参のとき、すでに現在地にあったと記録されているそうだ。

徳川吉宗が 日光東照宮 に参詣したのは享保13年(1728年)のこと。

芭蕉が訪れてから39年が経っている。

 『奥の細道』にはもちろん、『曽良随行日記』にも追分地蔵のことは書かれていない。

 嘉永5年(1852年)4月2日、吉田松陰は例幣使街道を行き、足利に向かった。

 二日 晴。早く發し、今市に至り直行す。則ち幕府由る所の道なり。二里にして大澤あり、社領はここに止む。右旁に一路あり、是れを例幣使の道と爲す。吾が輩は將に足利に抵りて學校を觀んとす。因つて路を此れに取り、板橋を經。


追分地蔵のことは書かれていない。

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